暗闇風呂で瞑想すると顔が浮かぶのだが
こんにちは。
てらぴーだよ。
半そでも終わりかなの夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
週末、そしてまた新しい1週間が始まります。
終わりと始まりの端境期。
先週(今週)の教訓を胸に、新しいことにチャレンジしましょう。
そのための手帳や日記、メモなのですから。
脳内のおしゃべりが暴走しないように、適宜紙に書き出して、脳内のお掃除を致しましょう。
僕は、前のブログで書きましたけど、お風呂はいつも「暗闇風呂」です。
特に夜は、明かりを消すといつまでたっても本当に真っ暗、闇の闇。
急に出てきた手に鼻をつままれても分かりません。
自分の手をいくらかざしても何にも見えない。
ならば、「瞑想」するにはもってこい。
全裸でしかもお風呂の寸法上「体育座り」な格好ですが、しばし目を閉じて気持ちを落ち着かせます。
目をあけてても同じなのですけど、そこは、ほら、雰囲気ということで。
一軒家だと、外に通じる窓があるせいで、ここまでの暗闇は望めませんが、アパートでよかった。
瞑想といっても、ただ静かにじっとしているだけです。
いろんな雑念が浮かびますが、基本追いかけません。
ただ浮かぶに任せます。
僕の場合は、時折り、いろんな顔、それもまさに、老若男女、いろんな顔がしかもグローバルに表れては消え消えては現れるのです。
ある時ふと、これらの顔って、もしかしたら俺の前世の人たちなのかもと妄想が膨らみました。
けれども次の瞬間、それにしては本当に普通の顔ばかりだなあと、少しがっかり。
よくある「あなたの前世は」では、「ローマ時代に兵士でした」とか「エジプトの何とか王朝で書記官をしてました」とかあるではないですか。
けれども浮かぶのは、ごく普通のオーラをまとった「庶民」の顔ばかり。
どんな前世やねん。
でもまあそうして真っ暗闇の中で、お風呂につかっていると、ストレスも軽減してくる気がします。
目下の夢は、体を伸ばして浮かべるカプセルがあるとのことなので、そいつにつかって、というか浮かんでみたい。
無重力状態になって、上下も分からなくなると聞いてます。
体と水の境目が無くなって、自己が広がるのでしょうか。
今のお風呂だと体を斜めにするのが精いっぱい。
おまけに、排水管を伝うのか、階下の物音も聞こえてきます。
絶対的な静寂、無音の世界を体験したいものです。
でも耳鳴り持ちだから、それはそれでやかましいかも。
ともあれ、落ち着ける環境に身を置いて、これまでとこれからを見据えてみましょう。
「今」がこのようであるのは、「これまで」の結果だし、「これから」の出発点は「今」を置いてほかにないのですから。
その上で、どれだけ自分を喜ばせられるか。
自分であることを我慢しないで、何がどうなればうれしいのか、スケジュールを見つめましょう。
時には、思い切ったスケジュールの断捨離が必要かもしれませんし、新しいワクワクの導入を計画していい頃かもしれない。
時代はどんどん「わがまま」になっているのかも。
「わがまま」は「我まま」。
自分のやってみたいことをどれだけ優先できるでしょうか。
待つ時間なんて、ないはずです。
バーチカル、バレットジャーナル、次のトレンドはデコレーションかも
こんにちは。
てらぴーだよ。
涼しさを通り越して肌寒い夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
昨日も、比較的大きな書店で、手帳を眺めておりました。
でも悲しいかな本屋さんは、ほとんどが高橋とノルティ。
後の限られたスペースを、いろんな手帳メーカーが奪い合っております。
毎年おなじみのもあれば、新しいのもあり、姿を消したものもあります。
各社様々に工夫をしたりしているので、それを見るのも、楽しみの一つです。
手帳用紙に特徴があるとか、マンスリーやウィークリーのレイアウトで競い合うとか、プラスアルファな、おまけをつけることで目をひこうとしているとか、分冊にして、全部揃えたくさせているとか、いろいろです。
そしてそんな中に、トレンディな要素もあるのです。
ここ数年は「バーチカル」が一つの目玉であったと思います。
高橋もノルティも「バーチカル」仕様の新製品を投入、市場が活気づきました。
最初にバーチカルの手帳を見たときは、衝撃でした。
探していたはずもないのに、「俺が求めていたのはこれか!」と思いましたから。
確かハイタイドの小ぶりな手帳でした。
10年ほども前のお話。
それがいつしか、ここ数年で、すっかり手帳の、ウィークリーの定番のような位置を占めるまでになったと思います。
有名人のプロデュース手帳のほとんどが、バーチカルです。
それに加えて、じわじわと人気を得ているのが、バレットジャーナルではないでしょうか。
バレットジャーナルの普及も、ここ数年の出来事といっていいでしょう。
もともとは、仕事やら日常のタスクやらの管理ができない「発達障害」の会社員(ライダー・キャロルさん)が考案した手帳術。
カレンダーまで手書きするという書き方が広く受け入れられて、手帳を買うというよりは、ノートを買って自分好みの手帳に(手書きで)仕上げることが、ブームのようになってます。
なので、バレットジャーナルの書き方を教えるYoutubeの動画では、カレンダーはもとより、その月を表す数字(今だったら9)をカリグラフィのように描いたり好きにデコレーションしたり、とにかく手帳としての記入欄は何から何まで手書きなのです。
写真を貼ったりイラストで仕上げたり、もともとの趣旨を離れて、アーチストっぽい手帳に仕上がってます。
人気は高く、この前ネットで、「書いた願いをかなえる手帳術」と紹介されていたのにはびっくりしました。
マジかよ。
案外、出来合いの手帳を離れて、真っ白(か、もしくはクリーム色)の分厚い、モレスキンタイプのノートに何から何まで手書きで書き込むスタイルが、さらに広がるのかもしれません。
手書きを支援する筆記具や、シールやマステなど、各種デコレーションのアイテムも充実の一途をたどり、頂点は見えませんから、まだまだ進化することでしょう。
カラフルで、デコレーションなビジネス手帳も、登場するかもしれません。
手帳に「こうでなければならない」ルールなどないのですから、いやあったとしても無視して使えばいいので、これからも手帳に注目です。
極彩色のシュールなユメを見た、野帳にメモした
こんにちは。
てらぴーだよ。
もうすっかり涼しい夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
今日の明け方だと思うのですが、極彩色のパラダイスなユメを見ました。
ちなみに、将来実現して欲しいのは漢字で夢、寝ている時に見るあれはカタカナでユメと書き分けています。
日記代わりの野帳に、時折り、特にはっきり覚えているユメを見たときには、すかさず「ユメ日記」をしたためています。
数か月もすれば完璧に忘れてしまうので、たまに読み返すときなど、「ほんとにこんなシュールなユメを見たのかよ、気でも違ったか!?」とびっくりすること請け合いです。
そしてユメは個人的なことなので、日記と同様、緑のボールペンで記録するのがお約束。
いやあ、今朝のユメはカラフルで、音楽付きで、物語仕立てで、細部に至るまで鮮明で、不思議なアニメを見ているようでした。
もちろん野帳に、覚えていることをすべて書きました。
ユメって、ほんとに、太陽光線を浴びたミイラか何かのように、消えていきますよね。
何の役に立つのかわからない、覚えていてどんな得があるかもはっきりしないことを、書いて残す意味があるのか、と言えば、面白いから残すとしか言えません。
このユメを見たおかげで、何かがうまくいくとか、そういう後利益は不明でしょうけど、これも何かしらの自分史の一コマとして記録しておいた方が、後で楽しめると思うのです。
ことあるごとに、物を知らないなあと思える自分の脳ですが、それでも記憶の総量としてはかなりなものだと思います。
そしておそらくその記憶の大部分は、無駄な知識または役に立たない記憶なのではないでしょうか。
調べたことないけど。
一説によれば、私たちは見たもの聞いたものなどをすべてことごとく覚えている、つまり脳の中にしまい込んでいるそうです。
でもそのうちの何パーセントが有益な知識や知恵なのでしょう。
だからと言って、インプットする時に、これは必要ないとして記録しなかったら、我々の記憶は、ものすごくか細いものになってしまうでしょう。
一見すると、無駄に思える記憶や知識があるせいで、実のところ私たちの知性と呼ばれるものも厚みを備えることができるのではないかと思います。
本当に必要な最小限度の知識だけでは、知的な武装もままならない。
無駄に思える事柄でも、そのことを脳が取り入れる過程で、何かしらの活性化が行われている、そしてそのことで、脳の機能も高まっていくのではないでしょうか。
なので最初から「関所」を設けて、これは記憶として残す、これは永久に消去などという選別をしない方がいい。
人間の記憶容量は結構すごいらしいので、何でもかんでもとりあえず頭に入れても大丈夫らしいです。
シュールなユメを見たからといって、役に立ちそうにないから消去しよう、記憶から追い出そう、なんて考えずに、面白いものはとりあえず記録しておこう、後で別の何かと結びつくかもしれないから、ぐらいに鷹揚に構えて、メモしてた方が楽しめますよ。
どんなことでも気軽にメモ、その中から不思議な直感も生まれるのだと思います。
それにしても、今朝のユメはすごかったです。
日々のToDoを壮大なプロジェクトに
こんにちは。
てらぴーだよ。
お月さまを背に歩いた夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
夜、降り続いていた雨も上がり、見事なお月さま。
満月からたった1日しか経っていないのに、もうまんまるには見えません。
見た目はあんなにちっこいのにね。
お月さまが日ごと夜ごと様々な顔を見せるように、私たちも一人ではありません。
個人としては一人でも、いろんな顔を使い分けていると思いますし、それぞれの役割においても、ただ一種類の顔をしているわけでもないでしょう。
我々は皆多重人格、といった人もいましたが、それぐらいひとりの人が持つ役割は多いのでしょう。
だとすれば、手帳においても、その書き分けが必要でしょう。
かと言って、「人格」ごとに手帳を用意するなんてことは非現実的です。
生身の体はひとつで、同時刻に違った空間には現れられないのだから、手帳はひとつ、でもその書き方に複数のラインを設定することはできるでしょう。
手帳の使い方で、仕事とプライベートの書き分けが話題になりますが、体はひとつなので、バッティングを避ける意味でも、1冊の手帳の中での書き分けがいいのではないかと思います。
そうしてさらに、タスクごと、案件ごとの書き分けをすれば、いかに多重人格であろうとも、1冊の手帳で、マネジメントが完結すると思います。
タスクや案件をプロジェクトと捉えて、そのプロジェクトごとの進捗を書き分けられればいいのでしょう。
そうなると、時間軸に沿った流れが見やすいバーチカルよりも、個々のプロジェクトの流れが見やすい「ガントチャート」がいいのではないでしょうか。
市販のガントチャートの手帳では、少なくても5件、多いと10件のプロジェクトを記入できるようになっています。
日々のいろんなタスクを分類して、その進め方を日付けと合わせてガントチャートに書き込む。
1日分の時間的な配置は、バーチカルで見える化すれば、いろんなタスクがあろうとも、管理できるのではないでしょうか。
幾つかのプロジェクトが同じ日に重なれば、それも見えるわけだし、スケジュールの渋滞も見える化することで、他の日に移すこともたやすいでしょう。
さらに、プロジェクトとしてまとめると、そこにストーリーも生まれてくると思います。
ひとつのプロジェクトの始まりから終わりまでに「物語」をイメージする。
そのイメージが、推進力となるかもしれません。
たんたんと個々のスケジュールをこなすのではなく、一つの壮大な物語を紡いでいる。
たとえ明日のタスクが、「トイレットペーパーを買うこと」であったとしても。
そうした、プロジェクトの物語化がつまらない案件を無くし、どんな些細なことも壮大な叙事詩の1節なのだ、という思い込みが、生活に彩を与えてくれるでしょう。
ばかばかしくも大げさなゲームに、日常を変えてみましょう。
ガントチャートで。
満月だ!月に光を浴びて月の人になろう!
こんにちは。
てらぴーだよ。
中秋の名月で満月の夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
満月です。
ベランダに、アウトドアな折り畳みのイスを出して、ちょいとお月見を。
雲もほとんどなく、満月の光を浴びてました。
それにしても、あの光が、もとをただせば太陽の光だなんて。
お月様自体には光を出す機能はなくて、太陽の光を反射してあのように輝いているのだと分かってはいても、あれはやはり「お月さまの光」だとしか思えません。
宇宙空間で、太陽からの光を反射する過程で、それから地球に届く間に、何かが起こって、光を変容させているのかもしれない。
吉田戦車の漫画に、こういうのがあったのを思い出しました。
衛星放送が見たいと駄々をこねる弟に対して、姉は「(地上波でも)同じじゃないの」というのですが、でも弟は、こう切り返して言うのです。
「だって、姉さん、衛星!
宇宙に行って帰ってきた電波だよ。
きっとすごく面白くなっているに違いないよ!」
同じようなことが、月の光にも当てはまらないと、誰が断定できるでしょうか。
月に光は神秘に満ちていて、とても「太陽光線を反射したもの」だけではないと思えてなりません。
月の光の変わり具合は、地上での時間の運行にも影響を与えています。
いわゆる太陰暦。
月の満ち欠けをもとに、地上で生活をしようと考えた、我々の祖先は、さながら月の人だったのかもしれません。
太陽暦がこれだけ普及しても、太陰暦は廃れるどころか、いまだに何かにつけ旧暦が参照されています。
私たちはいまだに、月の運行の中で生きているのかもしれません。
そう言えば、太陰暦カレンダーも何種類も出ています。
出始めは、もう20年ほども前だったでしょうか。
でもそれまでは、太陰暦なカレンダーや暦は、ほとんど見なかったように思います。
それが、カレンダーに始まり、太陰暦による生活の紹介や指南本へとつながり、手帳にも、月の運行を載せるものが出て、今ではすっかり市民権を得ているようです。
月の満ち欠けで生活を整えるような手帳も、何種類も出ています。
そこまで出なくても、見た目は普通の手帳なのに、月の形(月齢)をマンスリーのカレンダーや、ウィークリーに載せている手帳もあります。
僕が愛用している手帳は、カレンダーとウィークリーに、満月と新月、それに半月が、ワンポイントのようにつけられてます。
まあ、これぐらいは意識しようよと、そういう配慮なのかもしれません。
太陰暦があって、生活を決めてきたのではなくて、月の運行による生活が長くあって、それが太陰暦として作られた、生活の実践の方が先でしょう。
ならば、我々は、明治になって暦を切り替えるまで、月の運行の元に生活してきたのです。
時には月光を浴びて、月の光で生活していた昔を思い出してもいいのかもしれません。
パソコンの手前で使うノートがブレイクするかもよ
こんにちは。
てらぴーだよ。
石川県は観光客が増えたという夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
リモートワーク流行りで、ノートパソコンの手前に広げられる、おそらくは「京大式カード」の大きさのノートが、ひそやかなブームらしいですよ。
つまり、B5の大学ノートを横に半分にした感じのノート。
横長のカタチは、パソコンの画面や、黒板、ホワイトボードでおなじみです。
映画もそうだし、マインドマップなんかでも、A4のコピー用紙を横長にして書いていきますよね。
それなのに、ノートの類はなぜか縦長。
使い慣れてるとはいえ、ノート・手帳並びにメモ帳に縦長が多いのはなぜなのでしょうか。
ああ、でもたまに見る、新聞記者のメモ帳は、手のひらサイズで縦長です。
そのページが終わったら、上にめくりあげて使うタイプ。
メモ帳は、そのほうが使いやすいのかもしれません。
縦長で左右にめくるか、上下にめくるか、それとも横長で、左右にめくるか。
横長で上下にめくるって、スケッチブックがそうですかね。
こうして、身の回りの「冊子」の形とめくり方を見ていくと、一つに統一されてなく、なんとなくバラバラです。
いったいどれが使いやすいのか、でもそれは、ケースバイケースなのでしょう。
パソコンの手前に置くのなら、横長で左右にめくるタイプですよね。
そう言えば、昔の野帳にも、横長のタイプがあったようです。
大きさはそのままで、ページをめくるときは、縦にめくっていく。
つまり長方形の短い一片が糸綴じとなっていて、縦長でめくっていくというもの。
これを横置きにすると、パソコンの前でも邪魔になりません。
確か、2年程前に、ロフトで昔の野帳の復活コーナーがあって、4,5種類あったかと思うのですが、方眼のはたてよこどちらも買っております。
お値段が500円ぐらいと、通常230円ほどの野帳と比べると、そりゃあお高い買い物でした。
もったいなくて、閉まったままです。
でもこれを機に、野帳の方でも「横長タイプ」を定番化して欲しいものです。
もともとが40枚という薄さ、パソコンの手前に広げてなんの差しさわりがあるでしょう。
ここでも十分に、野帳らしさを発揮できます。
どうなんでしょ、ちまたでは、正方形型のノートも出ているというし、ここにきて、ノートの世界も地殻変動が起きて、「定番のノート」が変わっていくのかもしれません。
もともとノートというものは冊子ではなくて、ルーズリーフのように、1枚ものの紙に筆記して、ある程度溜まったら製本すると聞いたことがあります。
アート思考のブームもあって、知の世界にも変革が訪れようとしていますし、独学も一時のブームでは終わらないのではないか。
となると、それらを支えるツールとしてのノートにもまた、新たな脚光が当てられるのかもしれません。
その手始めに、横長のノートのラインアップが増えていくのかも。
目ざといダイソーでは、早くも数種類出てましたっけ。
これからも「横長」を合言葉に、パソコンの手前ノートが続々と製品化されるのでしょうか。
手に入らなくても、B5のノートを切っちゃえば、立派に代用できますよ。
でも野帳には、横長を出してほしいところです。
時には、歴史の証言者になって「日記」を書いてみる
こんにちは。
てらぴーだよ。
パソコン強制終了の夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
2,3か月に1回ぐらいは、パソコンがどうにも動かなくなって、強制終了しているように思います。
どこで何がどう動いているのかがさっぱりわかりません。
したがって、なすすべがない。
故・池田晶子さんも手書き派でした。
そうした事実をささやかな心の支えに、今日もブログを綴りましょうか。
手帳のスケジュール管理の機能、年間のカレンダーが見渡せるとか、マンスリーやウィークリーで予定が分かるとか、そうした機能はことごとくデジタルに移行しているのかもしれません。
でも、スケジュールの中で、デジタルに移行しにくいのが、デイリー、日記なのではないでしょうか。
薄くて持ち運びしやすい、カバンの中でもかさばらない手帳に人気が集まる一方で、1日1ページタイプの、1年分だと結構かさばる手帳も人気のようです。
代表は、もちろん『ほぼ日手帳』、それ以外にも出ているので、スケジュール管理といったビジネスライクなものより、自分ならではの日常を記録したい、という思いがそこにあるのかもしれません。
要は、詳細に今日の出来事を記してみたいとか、思いの丈を書き出したい、といった個人の歴史に、重きが置かれているのでしょう。
それなら、何も「手帳」である必要もなく、ノートに書き記していってもいいわけです。
ここに、スケジュール管理のための手帳と、自分史担当のノートが分かれて分担をする理由があるのです。
脳科学や心理学を持ち出すまでもなく、今は「心の時代」なので、多くの人が、自分の内面への興味や関心を高めているのだと思います。
スケジュールをこなす自分だけではない、「素」の、日々の生活と組んずほぐれずしている自分。
スケジュールを忘れずに実行する自分も自分なら、毎日の生活の中で、泣いたり笑ったり怒ったりしている自分。
誰もがうらやむような大成功はなくとも、些細なことに幸せを感じ、また逆に、小さなことに腹を立て不安になる自分。
首尾一貫しているようでしておらず、ハチャメチャ(死語?)のようで筋が通っている、この矛盾だらけの自分。
どう見ても、有名人とか歴史に名を残す人ではない、市井の人。
でもまあ、そんな自分の日常も、改めて振り返れば、結構波乱万丈だったりしませんか。
プチかもしれないけど。
きわめて私的な、自分のことしか書いてない日記でも、数十年とか数百年もたてば、それはそれで「当時の貴重な歴史」となることは、「社会史」が教えてくれているとおりです。
別に「歴史の証言」たらんと筆を持たなくとも、今日あったあれこれを事細かに感想重視で書き綴ればいいのです。
政治や経済、世界の大きな出来事は、何があっても残るでしょうけど、その時代を生きた、市井の人が、どんな思いで毎日を過ごしていたのかなんて、公式の記録とか「正史」には残りませんから。
それゆえに、日記というものが、貴重な記録となるのです。
時には、数百年後のわが子孫に向けて、日記をしたためるのもいいかもしれません。
客観的な記録なんてありませんし、あったとしても無味乾燥でしょう。
あなたにしか書けない日記について、思いを巡らせてみてはいかがでしょうか。