タスク管理のスケジュールから、「我まま」なスケジュールへ

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

自転車に乗るには涼しすぎる夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

手帳の、特にウィークリーの役割は、スケジュール管理も大事ですが、もっと大切なものがあると思います。

 

それは、「時間の発見」ではないか。

 

普段の、時間を大きく割いている「仕事」が、ほぼそのまま「ライフワーク」と呼べるものであるという幸福な場合を除いて、たいていの人が、「億万長者」になったら続けたくない「ライスワーク」に従事しているのではないかと思います。

 

それはそれで仕方がないこととして、でも一方で、自分の「好き」に没頭する自分時間というものが、必要とされているのではないでしょうか。

 

1日24時間が、自分時間だったら、だれるかな?という妄想はさておき、ウィークリーの、特にバーチカルを眺めれば、おのずと「自分(が自由にできる)時間」が見えてくると思います。

 

フランクリンプランナーの、「コップには大きい石から入れよ」の教訓通り、大きい石、つまり、どうしても動かせないスケジュールから記入していくのです。

 

会社勤めで、リモートワークではなく、出社している人は、通勤時間も入れて、仕事に取られる時間を記入するといいと思います。

 

そのほか、生活していくうえで欠かせない「ルーティン」を記入したり、やはり動かせない約束などを記入していく。

 

もしかしたら動かせるかも、という案件は、ウィークリーの1日分の幅に合わせて小さな付箋を用意して、書いておくといいでしょう。

 

今週しようと思っているけど来週でも大丈夫なものも付箋に書いて貼りましょう。

 

そうやって、しなければいけないことを書きこんで、後に残った空白地帯があなたの「自分時間」となるわけです。

 

少ないですか?多いでしょうか?

 

その一方で、自分が自分であるという充実感を楽しむために必要なことがらを書き出しましょう。

 

最初から小さな付箋に書いてもいいでしょう。

 

趣味やボケーっとする時間、映画を見たり舞台などを見に行く時間、読書の時間、街歩きの時間、カフェなどでゆっくりする時間、一人会議の時間、釣りに行くとかジムに行くなど、自分なりのリクレーションの時間、睡眠時間にお風呂でリフレッシュの時間、などなど、挙げていけば切りがなくなりそうですが、「この時間がないと生きている甲斐がない」と勝手に思える時間を書き出してみましょう。

 

「こんなことを書いたら我ままかな」という遠慮は脇に置いといて。

 

さて、それらを、先ほど明らかになった「自分時間」に配置しましょう。

 

すべては無理としても、どうしても必要であるを中心に、やはりここでも我がままに。

 

1週間には入らなくても、1ヵ月でなら実現可能というものもあるに違いありません。

 

どうしても週1じゃないと嫌だ、というものもあれば、月1でも構わない、というものもあるでしょうから。

 

「動かせないスケジュール」と「自分が自分であるために必要な時間」、どうやって、折り合いをつけましょうか。

 

それもまた、スケジュール管理なのでしょう。

 

妥協しないで、「動かせないスケジュール」を何とか動かせないか、考えてみませんか。

 

「自分時間」はなるべく引っ込めないで。

 

心の底からそれがしたいのだったら、することを自分に許しましょう。

 

どこまでも「我まま」になりましょう。

 

我ままは、自分のまま、ということなのですから。

 

自分を殺したスケジュールなんて。

 

手帳に写真を貼って飾り立てる「フォトデコレーション」、流行るかも

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

小雨そぼ降る夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

10月の始まりとともにやってきた週末。

 

これはもう「一人会議」をするしかないではありませんか。

 

月が改まったので、マンスリーに着けている、マステで作った「インデックス」を更新しました。

 

と言っても、「9月」のをはがして(ここがマステのいいところ)、新たに「10月」を貼っただけ。

 

月のインデックスは、12か月耳をそろえなくても、「今月」のがあればそれでいい派です。

 

先月や来月を見ることはあるけど、あちこち飛んで、2月はどうだっけ、5月に何をしたっけ、あれは3月じゃなかったか、なんて、マンスリーをあちこちひっくり返すような生活をしていませんから。

 

そして、ウィークリーの、今週のページのところに付箋を貼って、左利きなので、左手ですぐ該当ページが開けるようにしておしまいです。

 

この2か所のインデックスで万全。

 

市販の、そこだけラミネートなきれいなインデックス、手に取ってついつい試しますけど、あれはどう見ても「右利きの、こっちの手でお茶碗持つのよ」の人たち向けに違いありません。

 

左手でめくろうとすると、ラミネートの裏側を親指で押さえる形になってしまい、つまり、月毎に「段々」になっているインデックス効果が台無しになるのです。

 

アレハ、みぎてデソウサスルモノデス。

 

だから、出来合いの、最初から実装されているインデックスは嫌いです。

 

ていうか、使えないし。

 

例えば無印のような、ほとんど何の工夫もされていないような、シンプルな手帳の方が、後で自分流のカスタマイズができて、幸福感も膨らみますよね。

 

この、自分流のカスタマイズの自由度も、手帳を選ぶ際の重要なポイントであると言えましょう。

 

このご時世、色ペンは言うまでもなく、シールやマステ、スタンプに付箋、手帳をデコレーションするアイテムに困ることはありません。

 

手帳に写真を貼りつける工程も今はずいぶん簡単にらくちんに低価格になっているのではないでしょうか。

 

写真を色紙に貼りこんで、あれこれ飾り立てる「スクラップブッキング」というのがひところ流行りました。

 

少し遠くの書店の文具コーナーの一角が、常設の「スクラップブッキング」のコーナーで、講座も開かれていたはずでしたけど、今は見る影もありません。

 

でも最近、名前を変えて流行りそうな予感がしています。

 

たぶん、「スクラップ」という語感と、「ブッキング」のわからなさ、「本で何するの?」みたいな、そのネーミングから何をするのか判然としないことが原因で、今ひとつわが国では普及しなかったのではと思っているのです。

 

僕もこのブログで「フォトデコレーション」という名前にしたらどうかと書いたことがあります。

 

最近、似たような名称の、でも中味はまごうかたなき「スクラップブッキング」の作り方を指南するものが出てきているようです。

 

色紙(しきし)を使うと大げさになるので、手帳などを飾り立てる、「スクラップブッキング」の簡略版。

 

欲しいものをボードに貼るという、「ビジョンボード」の手帳版としてもいいでしょう。

 

とにかく写真を貼りこんで、手帳のそのページを華やかにする「フォットデコレーション」。

 

これからますます注目されるに違いありません。

 

だって、楽しいから。

 

手帳はライフログへ、でもそれだったらノートだ

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

またまた自転車ですっころんでしまった夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

転んで体が横倒しになると、かなりの確率で、肘もすりむいてしまいます。

 

こんな、生傷の絶えない老後を迎えようとは。

 

いや、まだまだ「老後」じゃない、「老前」だよ。

 

「これから年老いていく」という意味ではみんな一緒。

 

いつまでも、「老前」でいましょう。

 

とは言え、私の人生もいつかは終焉を迎えます。

 

誰にあてるでもなく、自分の生活の詳細を書き記すとしましょうか。

 

それが「ライフログ」、私が生きた証し。

 

などと言えば、尊大に響くでしょうか。

 

この私の人生のいったいどこに、書き記すだけの値打ちがあるというのか。

 

しかし、その際の値打ちとはいかなるものであるのか。

 

そして、誰が決めるのか。

 

万人に共通する、人生の真実を書き記してでもいない限り、そのライフログは読む価値なしなのでしょうか。

 

我々一人ひとりが「音叉」のようなもので、それぞれ固有の周波数を出している。

 

そしてその、特有の波形に共振する別の音叉は必ずあるに違いないと信じてます。

 

また、どこでどんな風に共鳴するのかも事前にはわからない。

 

生前は見向きもされなかった作品が、その作者の死後に多くの共鳴を生み出すことは、歴史がつとに証明しています。

 

でも、最初から、共鳴を狙って書くよりは、自分の考えたままを書き記した方がいいでしょう。

 

そのほうが「素」が出ますし、ライフログも薄っぺらなものになりません。

 

一人の個性が心底考えたこと、体験したことには、意外な広がりを見せることもあるでしょう。

 

今は、脳科学にせよ、心理学にせよ、哲学においても、内面への深い関心がもたれている時代なのですから。

 

手帳=スケジュール帳と狭めないで、事実の羅列はほどほどに、あなた自身の、その時の気持ちや考えを記してみればどうでしょう。

 

感情や考えを文字に書き出すことで、見える化つまり客観視することで、さらなる気づきも生まれてくると思います。

 

そしてそれは、ちょうどモスラが繭を作るのに糸を吐き出すように、「その場」で紡ぎ出されているのです。

 

決して最初から、用意されてなどいません。

 

書き出してみて、こんな感情だったのか、こんな風に考えていたのか分かることの方が多いと思います。

 

書くことは、書いている自分にとっても、大きな驚きであると同時に、予定外の発見でもあるのです。

 

時には、自動書記のように、後から後から文字が浮かんできて、とても書き止められない、といった事態も経験するかもしれません。

 

「思い付き」と言ってしまえばそれまでですが、書くまでわからなかった自分の思考や感情に向き合うのも、また楽しいものです。(時には、胸がきゅんとなったり、えぐられたりしますが、それもまた人生の醍醐味ということで)

 

それに、書くことには、意外な「浄化作用」もあるみたいです。

 

文字にして客観視することで、何かしらの効果を生むのでしょうか。

 

そのうち「瞑想」とコラボして、「書く瞑想」も誕生するかもしれません。

 

「写経」がそうでした。

 

日記と瞑想も、組み合わさると、相乗効果を持つかもしれません。

 

ライフログには、手帳よりノートでしょうから、ここでもノートと手帳の分冊が豊かな実りを生むのです。

 

たっぷり書けるノートを用意しましょう。

 

あああ、僕の9月が終わってしまう、あなたの9月は?

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

まだ夏が残っていたかのような夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

9月が終わろうとしています。

 

あなたにとって、この9月は、どんな月でしたか?

 

12分の1でしたか、それとも、それ以上の月でしたか、逆に、それ以下でしたか?

 

9月、あるいは「ひと月」というまとまりをどのように考えていけばよいのでしょう。

 

何らかの「答え」が出た月でしたか?「問い」を与えられた月でしたか?

 

10月以降に続く、課題が見えた月でしたか?

 

2021年の9月は、どのような月として記憶に残るのでしょうか。

 

日本史や世界史ではない、あなたの歴史の中で、どのような位置を占めるのでしょう。

 

どのような方向性を指し示すのでしょう。

 

この9月に、何が起きましたか?何が起きなかったのでしょうか。

 

9月に、何をすべきであったのか。

 

10月に、持ち越すものは何であるのか。

 

9月に、わが身に引き寄せたものは何であったのか。手放したものは、何であったのか。

 

9月に、後悔があったとすれば、それは何だったのでしょう。

 

9月に、記録しておきたい幸運はいくつありましたか?

 

この「空間」を共有している私たちには、時間は平等に流れるので、誰かがまだ10月になっていないといった事態にはなりません。

 

時差という事態はあるものの、日本列島に限れば、皆さん平等に明日は末日で、それを過ぎたら10月です。

 

もちろん、カレンダーに合わせて何かが起きるということもないので、これは9月でお終いで10月には起こらない、といったこともないでしょう。

 

また、9月の最終週から10月3日まで続くといったスケジュールもあるでしょう。

 

それでもここで、一区切りつけるとしたら、どのような観点から自分の生活を見直せばいいのでしょう。

 

何を評価し、何を教訓とすべきなのか。

 

生活の様々な分野で、何がどうであったのか、棚卸しをしてもいいのだと思います。

 

だらだらと、いつの間にか地続きのように9月のカレンダーがめくられて、10月に移行するなんて、マンスリーであることの利点を無視しているようなものではないでしょうか?

 

せっかく、マンスリーという区切りがあるのですから、このカタマリをうまくとらえるすべを身につけましょう。

 

単なる日付の進行とだけ捉えないで、9月を特徴づけることを、手帳をひっくり返して探すのです。

 

8月と同じであるはずがなく、また、去年の9月とも異なる、今年の9月の相貌が浮かび上がると思います。

 

よく食べたものでもいいし、買ったものを思い出すだけでもいい、日々の生活の中で、何かしらの変化が起こっているでしょうから。

 

「高尚」に見える、抽象的な側面をのみ話しているのではないのです。

 

いきなり、どう生きたのかといったステージに話が飛ばなくても、生活はどのようであったのかといった地平から、9月を捉え直してみればいい。

 

ともすれば、「平凡な、まあまあな月だったかな」といった、何も振り返っていないところへ逃げようとしますから。

 

そこを、手帳を片手に「9月のキーワード」を探すのです。

 

その上で、10月の期待に、思いを馳せましょうか?

 

手帳とノートの分冊に、さらに分冊の勧め

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

サロンパスでかゆくなる夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

さすがに貼り過ぎたのか、それとも汗のせいか、サロンパスを貼っているところがかゆくなってきたので、サロンパスを中止しました。

 

大分痛みもやわらいできたので、貼らなくても大丈夫でしょう。

 

痛みやかゆみって、時に理性をはぎ取りますよね。

 

さて、手帳ですが、ノートとの分冊によるコラボは、ますます盛んになることでしょう。

 

すべてを1冊にまとめるというのが流行った時期もありましたけど、何から何まで1冊におさめる、といいうのは無理があるでしょう。

 

カレンダーやスケジュール用のウィークリーのページなんかは、年間を通じてほとんど増減しなくても大丈夫でしょうけど、メモページは、そういうわけにはいきません。

 

たっぷりと、無限に欲しいものです。

 

よく、手帳で「メモページを増やしました」的な惹句を見かけますが、それでも限界はあるものです。

 

けれども分冊ならば、理論上、現実的にもいくらでも増やせます。

 

インプットの証しとして、また、アウトプットへの準備として、メモはすればするだけ役に立つので、「もう後10ページしかない」なんて事態に対応できるのは、分冊というシステムを置いてほかにないでしょう。

 

スケジュール帳としての手帳と、何でも、いくらでも書き止められるノートのコラボは、今後ますます普及するに違いありません。

 

ならばもう1歩進んで、マンスリーとウィークリーの分冊も進んで欲しいところです。

 

おそらくは、手帳1冊でスケジュール管理は万全、といった時代の名残でしょうか。

 

それとも「分冊」そのものが、煩わしいという感情からの商品構成からなのでしょうか、手帳は1冊に、年間のカレンダー、月ごとのページ、そして週間計画、ウィークリーのページがまとめられているのです。

 

が、しかし、かかる構成のせいで、スケジュール管理の際、マンスリーとウィークリーのページを何度もいったり来たりした経験をお持ちの方は多いに違いありませんし、それを「めんどくせー」と思った方も多いのではないかと推察するのです。

 

だったら、わければよくね?

 

という発想が浮かぶのは理の当然。

 

実際、手帳を上下に分割して、上段はマンスリー、下段にウィークリーのページという手帳もありますから。

 

ただ、広がってはいかないだけ。

 

でもそこに、「分冊になっているのなら欲しい、買う!」という需要も、あるのではないかと思うのです、毎年。

 

上下に分けると、どうしても書き込むスペースが犠牲になります。

 

イマイチ人気がないのはそのせいでしょうか。

 

ならば、はっきりと分けたほうがいい。

 

要するに、1冊に綴じなければいい。

 

でもそうなると、たぶん割高になることは火を見るより明らか。

 

人は安きに流れるので、マンスリーだけ買って、ウィークリーのページは買わずに済ませるという事例も多発しそうです。

 

でも、スケジュールを立てたり、確認したり、俯瞰したりするときに、カレンダーとウィークリーが一目で見渡せるほうが、ストレスもなく、気分いいのではないですか?

 

あっちこっちと手帳を行ったり来たりしなくても一覧できるすがすがしさ。

 

マンスリーが分冊になっていなくても、マンスリーだけの手帳を買い求めれば、解消することができるでしょう。

 

その分分厚くはなりますが、検討してみてもいいのではないかと思います。

 

僕のおすすめは、ガントチャートの手帳を1冊買って、マンスリーとして使ってみてはどうか、というものです。

 

ガントチャートの手帳、なぜか人気で、1000円以内で買えますし、今年はまだ見ていませんが、去年はセリアにありました、そして買いました。

 

これなら110円です。(税込み)

 

マンスリーの分冊、検討してみてもいいのではないかと思います。

 

ルーズリーフなどのバインダー式のノートを使ったバレットジャーナルが流行るかも

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

足が痛いので行動半径がほぼ自宅な夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

先日、セリアをのぞいていたら、A5、6穴のバインダーのリフィルが充実しているのに気がつきました。

 

なんか増えてないか?

 

セリアとかダイソーって、それが「作戦」なのか、「店舗によって、品ぞろえが異なります」よね。

 

うちの近所のセリアは、3店舗ほど、ダイソーも3店舗ありますけど、本当に品ぞろえ、商品の充実度が違います。

 

文具系で、新しい商品がすぐに入るお店もあれば、10年1日といった感じの、商品が動かない店舗もあって、「あちこちのお店に足を運んでください」というメッセージなのかもしれません。

 

A5のバインダーのシリーズも、すべてのお店で揃っているわけではないのです。

 

ダイソーもしかり。

 

でも、セリアが、マークスなどの、A5で6穴のバインダー式を意識した商品展開なのに対して、ダイソーは、無印の「リフィルノート」の愛用者を取り込もうとしているかのような商品を展開しているようです。

 

具体的には、A5で、20穴のルーズリーフ関連のノートなどが出ています。

 

A5の20穴のノートをレポート用紙みたいにぺりぺりとはがせるようにしたものが前からあります。

 

無印のそっくりさんです。

 

新商品だと思うのですが、ルーズリーフのちょい足しに使える9穴ぐらいのリフィルが4種類ほど出てました。

 

A7ぐらいの小さなサイズ。

 

ダイソーは、ルーズリーフで勝負、なのでしょうか。

 

さてセリアです。

 

セリアのA5、6穴のバインダーシリーズは、高校生あたりから20代の女性をターゲットにしたような書品構成になってます。

 

セリアって、大体そのあたりの年齢層を狙ってますよね。

 

「カラーマイデイ」におっさんは含まれてません。

 

なので、いくつかのセリアの商品は、欲しいと思うものの、レジに出すのが恥ずかしい、という思い込みで、購入をためらっているのが幾つかあります。

 

この、バインダーのシリーズなんかもそう。

 

スパンコール?が散りばめられたノートカバーなんて、おっさんやじじいには、必要ないでしょう。

 

試しに使ってみたいと思っても、単独でレジに出す勇気がない。

 

したがって、「ついで買い」という偽装を施すしかない、購入金額が増える、というジレンマの中で、購入をためらってしまうのです。

 

勝手な思い込みなんですけどね。

 

ただ、いくつかのアイテムは、おっさんにも使えると思われるものもあるので、今度まとめて、大人買いって言うんですか、しようかな。

 

ルーズリーフといい、6穴のバインダー式といい、自由なカスタマイズができるノートのシステムには、根強いリクエストがあるようです。

 

手帳やノートといえば、最初から冊子として綴じてあるもの、というのが相場ではありますけど、自分で組み合わせるタイプも相変わらず人気のようです。

 

考えてみたら、『ジブン手帳』も、「組み合わせができる」手帳に分類することが可能ですよね。

 

ただ、ルーズリーフ式には、「手帳のリフィル」が充実してません。

 

特に20穴のルースリーフでは。

 

あってもお高いか、バリエーションがありません。

 

ほとんどがビジネスライクなレイアウトです。

 

ルーズリーフ式を手帳として使うには、「バレットジャーナル化」するのがいいかもしれません。

 

バレットジャーナルなら、もともと普通のノートに書き込んでいくのですから。

 

無印やダイソーの、A6、20穴のバインダー式にするか、マークスやファイロファックス、そしてセリアのA5.6穴のバインダー式で作るか、次年度は、バインダー式のバレットジャーナルが流れの一つになるかもしれません。

 

リフィル集めるのが、癖になるんですよね。

 

激痛におびえる夜、だって痛いんだもん

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

自転車の乗り降りにも難儀している夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

昨日、結構渋滞している交差点の横断歩道を渡ろうとしていきなりすっ転びました。

 

ええ、ええ、それはもう見事に、なんの抵抗もなく体が横倒しになりました。

 

ハンドルに引っ掛けていた傘が。前輪と車体本体に挟まれて、ハンドルがロック状態になって、自転車の自由が奪われ、なすすべもなく横倒しになったのでした。

 

慌てて起き上がり、横断歩道を渡りましたけど、急いでその場を離れようとしたのですけど、ペダルがスカスカ空回りします。

 

横倒しになった衝撃で、チェーンも外れていたのでした。

 

用事を済ませいったん帰宅、夕方もう一件の用事を済ませようと出かける際、アパートの中庭で、またもや、本日2度目の転倒。

 

今度は左足を痛打。

 

学習能力がおそろしいほど低下しているのでしょうか。

 

独学どころじゃありません。

 

たぶん打撲だと思うのですけど、左足の付け根のあたりが、じっとしていると何でもないのに、歩いたり、体重がかかることをすると、激痛が走ります。

 

自分史上、近年まれに見る(見てはないけど)痛さです。

 

歩くのもままならないし、階段で体重をかけようものなら、めっちゃ痛い(語彙力も低下)

 

今朝がた、熱を持っているのではないかと思い、これまた自分史上最高枚数の「サロンパス」を貼りましてございます。

 

その数両足の付け根を中心に14枚。

 

貼り過ぎかなと思ったものの、5年ほど前に買ったサロンパスなので、早めに使い切ったほうがいいと判断。

 

有効成分が蒸発してしまわないうちに。

 

というわけでございまして、右足はそこそこ元気で痛みも少ないのに、左足の付け根から発せられる痛みの信号が激痛です。

 

こんなに体の一部が痛むのも久しぶりではないか。

 

痛くて痛くて、歩くたびに顔をしかめておりますが、世の中には、もっと激痛な場合があるのでしょう。

 

けれどもそんなの体験したくはありません。

 

と、思う一方で、自分のこの「激痛」が、世の中の痛みランキングだとどれくらいになるのか知りたくもあるのです。

 

「そんなの、激痛の風上にも置けない、まだまだだよ」レベルなのか、それとも「なかなか耐えているじゃないか」とか「その激痛によく耐えているね、普通だったら泣き叫んでるよ」なのか。

 

「痛み」には、国際的な指標といいますか、診察のレベルのようなものはあるのでしょうか。

 

ネットで、この植物の葉っぱでお尻をふくと、あまりの激痛で自殺者が出る、という記事を読んだことがあります。

 

死ぬほど痛いのか。

 

そんなのに比べたら、僕の「激痛」なんてまだまだのようにも思います。

 

でも、痛いんだよ。

 

さて、サロンパスを張り替えるとしますか。

 

明日は、痛みが引いていなくても、いくらかは和らいでいてほしい。

 

自分史上最高枚数のサロンパスなのだから。

 

今日も自転車が倒れ、転びはしなかったものの、右手の手のひらの一部に体重がかかるような体制になって、右手もおかしいのでした。

 

満身創痍かよ。