紙のクオリアはなくならない
こんにちは。
てらぴーだよ。
気がついたら、紙でできた四角いものが好きになってました。
紙というのは、一枚ものでも、書籍やノートなんかのように束になってても、あの質感が、たまりませんよね。
電子ペーパーになっても、紙に書いているという
ひっかかり具合を再現しているほどです。
教科書がタブレットになったり、ノートに手書きではなくなって、すべてが画面上で指一本とか入力用のペンとかでされるようになると、今僕が感じている「紙についての質感」なんて、単なるノスタルジアーになっていくのかしら。
そんなことを考えると、なんだかさみしい。
たしか、小松左京さんの短編に、こんなのがありました。
ある日突然、紙がボロボロになって消滅するという事件が起こります。
書籍や書類、ノートの類まで、とにかくありとあらゆる「紙製品」消えだした。
原因は不明。
しかも、その事態は、国内にどんどん広がり、やがて国を超えて、世界中で紙という紙が消滅していく。
やがて原因が特定される。
所から、「紙を食べるウイルス」が逃げ出したというのだ。
対策はなし。
人類のこれまでの英知の集積である世界各地の書物、古文書もどんどん消えている。
ここに至って、人類は、その知の集積や継承に「紙」というはかないものに託していたのだと気づくのだが、時すでに遅し。
(作品発表の時代背景は1970年代なのであしからず)
しかし、ギリギリのところで、このウイルスをやっつけるウイルスが発見だか品種改良だかされて、一件落着。
人類は、すんでのところで、紙の消滅から免れたのだった。
けれども、しばらくして発覚する、このウイルスには、重篤な副作用があったのだ。
それは、人の髪の毛を栄養分にしているということで、つまり、人類は、紙は助かったものの、髪の毛を失っていきつつある・・・・・・。
かくして、この作品につけられたタイトルが、
「紙か髪か」
いまなら、デジタルアーカイブということで、そう簡単には破壊されない方式で記録保存されているのだろうけれども、当時、言われてみれば、「紙」というある意味はかないものに人類はその英知の記録を任せていたのだなあ、ということで、目からウロコでしたね。
その一方で、紙とか書籍、中でも、古文書とか写本とかが持つ質感、色合い、手触り、そういったものも含めての記録ではないかとも思います。
どんなに電子的な筆記用具が発達しようとも、「紙に手書き」というアナログはすたれて欲しくないと思うのでした。