紙の束はたまらない

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

一枚ものの紙も好きだけど、束になっている紙を見ると、たまらなくなる。

 

場合によっては興奮してしまう。

 

手に取って、触るだけでもいい。

 

見ているだけでもいい。(ああ、でもやっぱり手に取りたいなあ)

 

特に、これに何かを書(描)いてやろうとか、これで何かを工作したいとか、そういうのはあまりない。

 

見ているだけで幸せ。

 

いったい、幼いころにどんな「トラウマ」があったのだろうかと思う。

 

かすかに覚えているのは、母の職場だ。

 

保育園とか幼稚園に通っていたあたり、ずいぶんと幼いころ、なぜか、たびたび母の職場に連れて行かれて、でも、ほったらかしにされていた。

 

母は、郵便局で電話交換手をしていたのだった。

 

NTTの前身、電電公社がわが町に来る前、電話業務は、郵便局でやっていたのだ。

 

当時、電話をかけるとき、いきなり先方につながるのではなくて、電話交換手につながって、お話ししたい相手の番号を伝えて、つないでもらうのだ。

 

なんとも気の遠くなるようなシステム。

 

それで、7,8人もいただろうか、巨大な電話交換機の前に座って、電話と電話をつなぐという、なんともアナログな操作を母はしていたのだ。

 

ちなみに、母は、電話交換手をしていた割には、自宅での電話の受け答えが、時に常軌を逸するほどひどかったのは、また別の話だ。

 

さて、その、かかってきた電話と先方の電話をかなりぶっといケーブルで、しかも人力でつなぐのだが、その時に、ちいさな、はがき半分くらいだったろうか、色違いのメモ用紙を使うのだ。

 

たぶん、電話をかけてきたほうが、「〇〇番お願いします」と先方の電話番号を伝えるのだろう。

 

で交換手は、その番号をメモして、横に並んでいるその番号の担当者に渡す。

 

担当エリアを間違えないように、メモは、色分けされている。

 

で、そのメモが、交換手たちの後ろに多量に積み上げられている。

 

今の、カラーのコピー用紙みたいに、3,4色もあったろうか。

 

白紙ではなくて、もうすでに何か記入欄とでもいうべきものが印刷されていて、裏を使うのならまだしも、勝手に落書きなどできないのだった。

 

さて、そんな「職場」に放り込まれて、大好きな紙が大量に、しかもカラーでドカンと置いてある。

 

しかし、それは母たちが仕事で使うものでしかも、すでに何かが印刷されていて、お絵かきには向いてない。

 

どうしたって、紙への、紙の束への愛着が募るではないか。

 

紙が大量に積まれている、あるいは、束になってそこにある、その状況が、文句なしに快であり、そして、そのかたまりをば、手に入れたいと思う心性は、てらぴーのそんな幼児体験に根差しているのかもね。

 

そうしててらぴーは、今日も、紙でできた四角いものを求めるのだ。