習熟度別クラス編成なんて、とりあえずでしかない

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

習熟度が違う生徒がいると、教えるのが格段に難しくなる。

 

ということは、何もお勉強に限ったことではない。

 

例えば野球だって、チームの中に、ルールも知らない経験もない初心者から、大リーガーまでいたとして、そんなチームないけど、一緒に同じ練習をできるものだろうか。

 

キャッチボールすらできないよね。

 

学校における習熟度別のクラス編成というのは、スポーツで一軍と二軍を分けるようなもの。

 

そうしたときに、実力をきちんと評価すれば、どうしてあいつがレギュラーで俺は補欠なのかといった文句も出ないだろう。

 

それなのに、お勉強に関しては、テストの点数で分けるということに過剰に価値が置かれているせいで、あまり評判がよろしくなさそうだ。

 

学習塾などでは、当たり前なのに。

 

よく、ペーパーテストの点数だけでなく、その子の人間性も評価すべきなんて物言いがなされるけど、人間性の評価で不合格になったら、場合によっては、立ち直れないよね。

 

テストの点数なんて、野球がうまいか下手かというのと変わらない。

 

たくさんあるその子の一面にしかものさしを当ててない。

 

どのようなテストでも、測れるのはその子の一部分。

 

ものさしはいくつもあるはずなのに、記憶力テストばかりが評価される、そういう風潮が変わっていきますように。

 

とはいうものの、国語の習熟度別って何だ?

 

知識なのか、読解力なのか、感性なのか。

 

国語の授業が難しいのは、生徒の、やる気と精神年齢に幅がありすぎるからではないか。

 

他の科目と違って、国語では、「読む」時間がどうしても必要だ。

 

もしくは、誰かが読むのを聞く時間が。

 

その間は、集中して読んでいたり聞いていなければならない。

 

これが苦痛であるか、それともその時間に没入できるのか、そのことが国語の授業の成否とか、学力の伸びを左右する。

 

しかし、仮に集中して聞いていたとしても、精神年齢という壁がある。

 

文章に対する理解力を左右するものは、知識以外に集中力も挙げられるが、言葉から中身をイメージする力というものが、どうしても必要になる。

 

言葉を上を滑っているのか、内容に深く入り込んでいるのか。

 

それは一種の才能のようなものかもしれない。

 

外から、ここはこういう風に読め、などと指図できるものではない。

 

だからと言って、まったく自由に読んでいいというわけでもないところが、読解の難しさだ。

 

だから、とりあえずのクラス分け、ということでしかない。

 

もっといい方法があればそうするけど、今のところこの方法がましなほうだから採用したまで。

 

国語ってのは、教えるのもそうだけど、評価するのもたいへんだ。

 

それでも、読解力はつけたほうがいいよね。