潜水艦の時代なのだ

 

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

葦の髄から天井を見るっていう言葉があるよ。

 

葦(よし)は、葦(あし)の忌み言葉。

 

「あし」が「悪し」つまり悪いことよくないことを連想するので、よし「良し」に言い換えた。

 

するめを「あたりめ」とか、終わりなのに「お開き」とかのあれだ。

 

さて、葦の髄です。

 

要は、長い1,5メートルから2メートルぐらいの長い「ストロー」があると思ってください。

 

太さだって、ちょっと太めのペンぐらい。大きいものではありません。

 

そんなんで天井を見る。

 

見えるのは?天井ではなくて、天井のごく一部。

 

どれくらいの天井なのかはわかりませんが、見られるのはごく一部。

 

つまり冒頭の格言は、ものごとのほんの一部分しか見てませんという意味で、つまりは見識が狭いとの謂いです。

 

これってまさに今の私たち、って思いませんか?

 

情報はあふれているのに、どこまで行っても断片で、全体像がうまくつかめない。

 

コメンテイターや「識者」、あるいはヒョーロンカの方々の言うことも一面的。

 

けれどもどこかで、いつの間にか、全体的な思い違いが出来上がっている。

 

政府はこんな風だ。アメリカはこんな国だ。中国はこんな国だ。安倍総理はこういう人で、トランプ大統領はこういう人、などなど。

 

そこでは、一部分が、すなわち葦の髄からのぞいたわずかな部分が、全体に広げられているのではないでしょうか?

 

偏った見方が、いつの間にか脳内で、中央値へと補正されていく。

 

誰もが、自分は正しい、自分がスタンダード、自分が正常という立場で物事を考えている。

 

だから、異なった考えを許せない。受け入れられない。

 

そんな意見はないことにしようと考える。考えるだけではなく、何かしらの「実行」がなされる。

 

「葦の髄」、すなわち細長いストローは、潜水艦の潜望鏡に似ている。

 

潜水艦というのは、とても不思議な乗り物です。

 

潜航しているときは、外の様子が分からない。

 

どこにも、窓がない。

 

窓がない乗り物って、宇宙ロケットと潜水艦ぐらいじゃないのかなあ。

 

海面近くまで浮上して、初めて、潜望鏡が使える。

 

けれどもその潜望鏡たるや、葦の髄そのもので、外の世界のわずかな部分しか見て取ることができない。

 

もちろん完全に浮上して、潜水艦の外に出てみれば、周りを見晴るかすこともできようが、それはもはや「潜水」艦ではない。

 

私たちの姿に、重ならないでしょうか。

 

私たちは、一人ひとりが潜水艦なのです。

 

そして、イワシのように群れを成して全体として、どこかに行こうとしている。

 

でも、潜望鏡しかないので、見える範囲は限られてます。

 

深く潜っていると、まったく見えていないこともありうるでしょう。

 

けれども、どうにかして、断片をつなぎ合わせて、世界を形作るしかない。

 

作り上げている世界像を更新し続けるしかない。

 

今はそのように思ってます。

 

自分が見ているものは断片なのだ。

 

その自覚が、情報のリテラシーにつながることを祈って。