国語の読解力の幅を作るもの
こんにちは。
てらぴーだよ。
国語という科目の授業には、ある種の困難さが存在します。
漢字や語句の説明とか、文法の解説などでは、授業を進めるのが、それほど難しくはないでしょう。
けれども、文章を、特に長い文章を解説する時には、大変な困難に、授業者は直面します。
ところで、いったいに、文章を読むとか、それを解説するとかいうのは、どういうことなのでしょうか?
書かれたものを読むというのは、きわめて個人的な事柄です。
時には数人であるいは大勢で、同じ文章を読むということが、ないわけではありません。
けれども、そういう時でさえ、各人の頭の中では、一人でする時のような「読む」という行為が行われているはずです。
ここではひとまず、「書かれている内容がわかる」ぐらいに考えておきましょう。
さて、それでは、それを解説するというのは、どのような行為であるのか。
国語で長文を読むときに、誰かを指名して、又は、先生自らが、本文を音読することがあります。
文章に出会ったら、まずは、声に出して読めなくてはならない。
このことは、読むという行為の、大前提です。
けれども、しばしば音読は、軽く見逃されています。
ここに、盲点の一つがありますが、そのことについては別の機会に。
一方で、クラス全員で音読することもあるでしょう。
こうして、音読した後で、内容の理解に入ると思いますが、ここからが難しい。
学習塾などでは、いきなり本文の解説に入ったり、本文の解説抜きで、設問の解説に入ることもあるでしょう。
そこにも盲点がありますが、それもまた別の機会に。
本文の解説とか内容の説明とかは、読み取り方の伝授であったり、本文を解きほぐすことであったりします。
要するに、ここで筆者は何を言おうとしているのか。
この文章で何が言いたいのか、1行にまとめなさいということができるのなら、最初からそうすればいいのに、という突っ込みは置いといて。
黒板に、本文の内容を図にまとめたり、段落ごとの要点を書いたりして説明していくのですけれども、聞いている生徒は、全員が同じ学力ではありません。
もちろん、聞く手前で、聞く気がないとか、頭が働かないとか、そういった事情もあるでしょう。
みんながみんな、授業に集中できているわけではありません。
仮に、全員が聞き耳を立てていても、理解力に幅があります。
ありすぎる、と言ってもいい。
その理解力を左右している力の一つが、精神年齢というものです。
精神年齢は、理解力のみならず、聞く態度にも表れます。
仮に、中学3年生の40人ぐらいのクラスであれば、クラスの中に、幼稚園児ぐらいから、大学1年生までがいる感じ。
あくまで、経験的な印象ですけど。
物語を読むというのなら、まだ簡単ですけれども、説明文とか論説文あたりになると、まず、言葉の力以前に、その長文のテーマに興味が持てるかどうかで、読解に差が出ます。
興味を持てて、何が書いてあるのか読み取ろうと頭を働かせる生徒の一方で、興味がもてなくて目線も字面をなめるだけ、という生徒もいます。
そして、そういう生徒に対しては、読むということが、しばしば、読ませる、さらには、教師の読みを押し付けることになりがちです。
精神年齢の幅は、一律なものでもありません。
読む文章によっても、違ってきます。
自分が関心を持てる分野なら積極的に読めるのに、そうでないと、途端にやる気が急降下してしまう、そんなことも、珍しくはありません。
テレビのチャンネルを、どんな番組に合わせるか。
ニュースとかドキュメンタリーを見る生徒もいれば、バラエティ番組にしか興味を示さない生徒もいるでしょう。
ドラマで、感情移入できる生徒もいれば、なんでここでみんなが泣くのかわからない、といった生徒がいることもあるでしょう。
もちろん、多くの人がそう考えるその逆を行くことで、独自の世界観といったものを示す生徒もいるでしょう。
そういうのは、否定はしないまでも、とても危ういものです。
個々のケースで判断していくしかないでしょう。
ともかく、一つの教室に幼稚園から大学生までがいるのですから、共通理解を求めることが、困難極まりない、ということは分かってもらえるかと思います。
本文の説明をする、その言葉の選び方から、困難は始まっているのです。