文が「分かる」ということは
こんにちは。
てらぴーだよ。
国語の文章が「分かる」というのは、どのようなことなのでしょう。
東京で、中学受験の塾に、正社員として勤めていたころ、とある中高一貫の女子中学の国語の入試問題に、こういうのがありました。
確か、江藤淳さんのエッセイです。
その出だしの1行をはっきりと覚えています。
(引用ここから)
寿司はこはだにとどめをさす。
(引用終わり)
見た瞬間、こんなの小6女子に読ませんなよ、と思いました。
もちろん、賢い受験生は、そんなところは無視して読み進めます。
実際その冒頭の部分は、設問には絡みません。
だから、分からなくても大丈夫、問題には解答できます。
でも、国語の教師としては、考え込んでしまう。
この1文が「分かる」というのは、どういうことなのだろうか、と。
一部の小学生を除き、お寿司を食べるときは、小学生なら、まず、さび抜きでしょう。
でも、大人になると、ワサビのあの味わいが、たまらなくなる。
あの辛さが、お刺身のうまさをさらに引き立てている。
少しだけ、鼻にツンと抜ける、あの感じがたまらない。
などと書き連ねても、伝わらないでしょう。
実感を伴って、「今までいろいろとすしを食ってきたけど、やっぱりこはだだねえ。」という境地に、どうしたらたどり着けるのでしょうか。
それとも、それは個人的な関心以上のものではないので、こはだ=最高とはならない。
なんていう、すしネタは何が最高か、あるいはこはだの〆具合や如何に、といった論争に発展するのでしょうか。
それとも、語義の言い換えだけで、「とどめをさす」は、この場合「いちばんうまい」ぐらいの意味で、作者は、「お寿司は、こはだが、一番おいしい」と言ってます、あたりの理解でスルーされてしまうのか。
何が書かれてあるのか、その意味を取るのが読解だとして、どこまで読み取ればいいのか。
表面的な意味の理解だけで、いいのか。
実感は、説明されないのか、できないのか。
いつまでも、こだわっていたら、読み進められないので、ほどほどに、適当なところで、次に進めていかないと、読むことなどできない、とはいえ。
大学のゼミなどで、文学作品を1回の授業で1行ずつ読むような、精読がありますが、何でもかんでも精読してたら大変。
結論は出ないまでも、常に「読む」ということはどういうことなのかを考えてないと、足元すくわれちゃうかも。
でも、入試問題は、いい文章が多いです。
この人の、この文章の、ここを問題文にしましたか、お見事!と何度うなったことか。
それこそ、「こはだにとどめを刺す」みたいなものです。