痛ましい事故で、社会の輪郭を知る

なんとも痛ましい事故が起こったものだ。

 

87歳の男性の運転していた車にはねられて、3歳の女の子とその母親が亡くなったというのだ。

 

ニュースで、残された父親、夫である男性が、会見をしていた。

 

心痛、いかばかりであろうか。

 

一方で、87歳に、どんな償いが出来るというのだろう。

 

亡くなった女の子は、まだ3歳。

 

3歳といえば、かわいい盛りである。

 

おばあさん役で定評のあったある大女優は、独り立ちする娘の、

 

「お母さん、これから親孝行するね」

 

という言葉に答えてこういったそうだ。

 

「親孝行なら、もうしてもらったよ」

 

生まれてきてくれたこと、育てられたこと、かわいい姿を見せてくれたこと、

 

そういったことが親孝行だったのだ、と。

 

もちろん、病気や何かで、年齢に関係なく、人は命をなくしてしまう。

 

けれども、明確な殺意こそなかったとはいえ、誰かに命を奪われたときに、残されたものは、何をどうすればいいのだろう。

 

他者に特に犯罪被害者に寄り添う想像力をこそ、持たなければならないのだろう。

 

それにしても、私たちは、私たちの社会というものは、「交通事故」を克服できてはいないのに、社会の課題としては、大きくは取り上げられることはない。

 

そのこともまた、奇妙なことだ、と言わざるを得ない。

 

毎年、雑誌の新年号、特にビジネス雑誌においては、次年度の日本の課題などというものが特集で組まれたりする。

 

2019年だと、AIであるとか、働き方改革であるとか、政治経済国際関係、様々な分野の課題が取り上げられているが、「交通事故」は、ない。

 

自動運転のシステムが完成すれば、事故もなくなるので、楽観されているのだろうか。

 

おそらく、違うだろう。

 

ただただ鈍感になっただけではないのか。

 

普段、自分がどのような社会に住んでいるのか、あまり深くは考えないものだ。

 

けれども、残念ではあるけれども、事故や事件をきっかけとして、考えることはできる。

 

そうやって考え続け、議論を起こし、変えるべきは変えていくことで、死者に対してなにがしかの供養ができた、と言えるのではないか。

 

忘れずに考え続けること、「当事者意識」という想像力を手放さないこと。