40兆の細胞が日々入れ替わっている、音が聞こえたらさぞかしうるさいだろう
こんにちは。
てらぴーだよ。
私たちの体は、日々、いや瞬間瞬間ものすごい速さで入れ替わっている。
細胞が分裂し、新しくなるのと同時に、古い細胞は消えていく。
今こうしている間にも、体はどんどん上書きされている。
最新の研究によると、人間の体はおよそ40兆の細胞でできているのだという。(以前は60兆とか言われてた)
それが日々入れ変わっているのだからたいへんだ。
いまも、体のあちこちで、合わせて何億もの細胞が分列したり消えたりしているのだ。
まさに、流れている。そのただ中に我々は生きている。
けれども、どんなに静かに落ち着いていても、その流れを体感することはない。
どんなに耳をすませてもその音はもとより気配すら感じないのだ。
「う、わー、今ここの細胞、めっちゃ分裂してる!」
とか、
「わー、今ここで細胞、消えてる消えてる!」
ということにはならない。
禅や瞑想の達人なら、感じるのだろうか。
不思議だ。
静かに座っていても、体はどんどん入れ替わっていて、新しくなっているというのに、あいかわらず、「自分」なのだ。
科学の成果によれば、1年も立つと、全ての細胞が入れ替わるのだ、という。
従来、変わらないとされた脳細胞も入れ替わっているらしい。
けれども、自分であることは変わらない。
細胞分裂が進んで、別人になりました、ということはないのだ。
昨日も自分だったし、おとといも自分だった、生まれてからずっと自分だ。
それを保証するものは何だろう?
遺伝子?
それを、生物学者の福岡伸一ハカセは、記憶だとおっしゃる。(『福岡伸一、西田哲学を読む』明石書店)
なるほど。
それでは、その記憶はどこにあるか。
それは、脳の神経細胞と神経細胞の関係性から生まれるのだ、という。
なるほど。
してみると、我々は、実態ではなくて、映像のようなものなのかもしれない。
してみると、「ボケる」というのは、自分で無くなる病なのだと言えるのかもしれない。
昨日の自分と今の自分をつなぐものが「記憶」だというのなら、自分の活動の記録こそが、自分のアイデンティティになる。
自分であるために、もっと自分でいるために、今日を生きよう。
自分が生きているとはどういうことなのか、問いかけながら前に進もう。
細胞レベルでは、昨日と同じ自分ではないのだから、行動や思索レベルでも、昨日の自分を越えよう。
自分の成長が、どんなにわずかでも、気がつけるようにしよう。
そのために、日々の日記がある。