言葉にならないことを言葉で捕まえる、野帳を使って
こんにちは。
てらぴーだよ。
野帳のある生活、というのは、「書くこと」を日常に取り入れた生活を送る、ということだと思うのです。
そして、書くことは、考えるということであり、それは同時に「言葉にする」ことでもあるのです。
時折、イメージが舞い降りるというか、思い付きとかアイデアがイメージの形で浮かぶということはありますが、たいていの場合は、言葉を使って考えたり感じたりしているのではないでしょうか?
感情であれ思考であれ、中には、すぐに言葉にしにくいものもあると思います。
もうかれこれ20年以上も前、腰痛がひどくて生まれて初めて整体院に行ったときに、先生から、こう聞かれました。
「どのへんがどんなふうに痛いの?」
いきなりでもあったので、言いよどんでいると、先生はすぐにあきらめて、
「自分の体のことを言葉にできないようじゃだめだね」
とおっしゃって、治療に入ったのでした。
そのことがあってから、たとえば「痛み」をどんな風に言えば伝わるのか、考えるようになりました。
腰のどのへんが、どんな具合に痛いのか。
その、腰の部位にしても、「ここらへん」と言わないで、どう具体的に言えばいいのか、また、痛みの言い方は、どのように表現すれば相手に伝わりやすいのか。
言葉にできないことを言葉にしていく、それもまた、考えることであったり、「書く」ことにつながるのでしょう。
常に野帳を携帯して、書き癖をつけるということは、だから、思考力と語彙力・表現力のたゆまぬ訓練なのです。
普段、友達や知り合いなど、自分をある程度知っている人たちに囲まれて生活していると、「わざわざ説明する」ということが少なくなると思います。
一番近いけど結構遠い他人は、恋人とかパートナーでしょう。
もともとが、生まれた環境や育ってきた経歴が違いすぎます。
皆さんも、付き合い始めの頃は、「カルチャーショック」の連続ではありませんでしたか?
お互いを理解するのに、違う言語の辞書を作るように、にじり寄って、少しづつ理解が進みませんでしたか?
そして一番近いけど一番遠い他人は、自分です。
自分とは、何者なのか、これはもう永遠の観察対象でしょう。
観察して観察して、外から見て中からも見て、行動や思考を俯瞰し、傾向を割り出して、もう何十年と付き合っているのに、全貌が見えてこない。
逆に言うと、こんなに面白いものはない。
ただし、そう思っているのは、自分だけのような気もします。
自分のこれまでの人生を、映画か何かに仕立てたら、おもしろがって最後まで見れるのは、自分だけのような気がします。
その自分が、日々何をしているか、何を考えているのか、頭の中に渦巻く何か、胸のあたりで広がる何か、そんなものに言葉を与え、言葉で捕まえて、言葉で書いていく。
それが、結構面白い。
自分観察日記に、野帳は欠かせません。