つくった人を無理やりつくって、感謝してみる

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

やや涼しげな夜に、手帳の時間です。

 

今日一日を思い返して、にっこりしながら布団に入れるように。

 

今日、どんな言葉に出会いましたか?

 

どんな本を読んでいますか?

 

もしその本を書いた人が、あなたに「バトン」を渡したいのだとしたら、それはどんな「バトン」でしょうか?

 

そんな「バトン」なんてなかった、気がつかなかった。

 

なかったと思う。

 

それでもいいのですけれど、でも、表現をする人は、どこかで誰かとつながりたいと思っているのではないでしょうか?

 

表現者に限りません。

 

あなたの周りにある、あらゆる「作られたもの」は、メッセージです。

 

もちろんそこまで深く考えなくてもいいのかもしれません。

 

でも、時には、勝手に思い入れして、勝手なメッセージを受け取ってみませんか?

 

今日食べた木綿豆腐、つくった人は、「暑い日が続くけどこれ食って、冷えてくれ」なんて思ったのだろうか?なんて。

 

それとも、「木綿より、絹のほうがいいよ」と内心考えていたら?

 

そんなたわいもないことから、このとうふが、命をつなぎますように、との思いを込めて作られたのだとしたら、とまで考えてみるとか。

 

今日着ているシャツ(上着)だって、「ボタン付けるのめんどくさい、取れても知らないよ」とぞんざいに作業しているより、「このシャツを着る人が、気持ちよくとめられうように」ていねいにボタン付けをしている、と想像したほうがいいのではないかと思ってしまう。

 

幸いボタンは取れてないし、着心地はまず普通。

 

でも、そうやって身の周りを見渡すと、この世は善意であふれていると思わされます。

 

物以外にも、自分の生活をどこかの誰かが支えてくれている。

 

ただ、見えないだけで。

 

そんな風に考えるだけでも、自分は大事にされていると錯覚できそうです。

 

どうせ、本当のところはわからないのですから(作った人全員に聞くわけにもいかない)、思いっきり自分に都合のいい勘違いをしたほうが、楽しい。

 

今日1日を振り返って、特に記憶に残ったものやことを作ってくれた人を勝手に想像して、(例えば給食のおばちゃんのような人たち)笑ってみませんか。

 

「おばちゃん、ありがとうね、うまかったよ」とか、

 

「おばちゃんの作ったタオル、気持ちよかった」とか。

 

ばかばかしいかもしれないけど、結構楽しい。

 

笑えたら、それが正解。