頭と体と心は、別々に成長させられない

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

カエルの声が、いつの間にかコオロギの声に代わってしまった秋の夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

手帳は、単なるタスク処理の道具ではありません。

 

ToDoリストのメモだらけでは、生きた証になりません。

 

今日の自分をどのように記録すれば、後から見返して面白いのでしょう。

 

どんなことを記録すれば、自分の成長が跡付けられるのか。

 

何が成長に結びつくのか判然とはしていませんが、せめては毎日の自分なりの「鍛錬」を書き記すとしましょうか。

 

鍛錬と言っても、その中身は、体だけを鍛えるとか、そういうものではありません。

 

頭と体と心、この三つの領域は、分かちがたく結び合っているからです。

 

昨日買った、内田樹先生(武道家)と池上六朗先生(治療家)の対談本『身体の言い分』(毎日文庫)を読み進めてはいるのですが、まったくと言っていいほどわかりません。

 

言葉遣いは平明なんですけど、言わんとしていることが頭に入ってきません。

 

お二人とも、体をお使いになるので、そのお考えのありようにも、そのあたりのことが関係しているのでしょう。

 

内田先生は武道家、池上先生は治療家。

 

体抜きに思想は語れません。

 

そうなると、「からだ」のないAIに、どうして「知性」が宿るのでしょう、という気持ちにもなってきます。

 

人工知能に、知性は宿らないでしょう。体を持たない限りは。

 

ひるがえって自分は、知性を磨くために体を鍛えているか、と言えば、はなはだ心もとない。

 

生活を立て直すしかないのではないか、と反省しております。

 

もっとこの本で述べられていることを分かりたい、それには、頭だけではだめなようです。

 

本の理解を離れても、実は頭の働きを体のありようが左右している、ということは大いにありうることです。

 

頭にどのような栄養を与えたか、それは気になっても、同じような真剣さで、体に与えた栄養のことを気にしていたかとなると、案外見逃していたかもしれません。

 

もっとトータルに、自分のパフォーマンスをとらえなければならないようです。

 

頭と体と心、それらへのインプットと、それらからのアウトプット、全体のバランスも、大いに気にしたほうがよさそうです。

 

今日、頭に何を与えましたか?

 

頭を使って、どんなことを楽しみましたか?

 

今日、体にどんな栄養を与えましたか?

 

体を使って、どんな活動をしましたか?

 

体からの便りを、きちんと把握してますか?

 

今日、心をどんな風に育てましたか?

 

心はどんなことにどのように反応しましたか?

 

今日、どれくらい自分でしたか?

 

自分であることを、楽しんでますか?

 

頭と体と心が、まわりまわってきびきび動くようになりますように。