生きた証しはルーティーンを残すところから始まる

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

冬の装いで1日過ごして、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

手帳を活用して、人生の質を上げようと試行錯誤しています。

 

けれどもそれは、毎日のルーティンをどう過ごすかの連続でしかありません。

 

ある日いきなり人生が変わるということは、めったにあるものではない。

 

大変な天変地異とか政変とか、あるいは、自身や近親者に起こった重大ごととか。

 

けれどもそういうことは、イレギュラーなので、あらかじめ予定には入れられません。

 

来月のこの日にものすごいことが起きるから、自分の人生もそこで大きく動く、なんて予定には組めないでしょう。

 

ToDoにだってならない。

 

毎日の積み重ねをこそ大事にしていくしかないのです。

 

さて、10年前の今日、何をしていましたか?と問われれば、どうしますか?

 

たまたま何か特別なことがあって覚えていた、というのはなし。

 

たいていの人は答えられないと思います。

 

僕も覚えてません。

 

あまりにもルーティンだから。

 

でも、今生きている、ということは、その日も確かに生きていた。

 

当たり前ですが、でもその頃どうやって生きていたのか、何を食べていたのか、何を考えていたのか、何に心奪われていたのか、といったことはもうかすんでいる、というより「この世に存在しません」。

 

確実に自分につながることなのに、消えてしまってます。

 

消えている、ということは、もうそのころとは「対話」できないということなのではないでしょうか?

 

何十年も生きてくると、ずいぶん遠くに来てしまったなあと思うことがあります。

 

例えば、20代の頃に考えていたことは違うことをしているようなときに特に。

 

あの頃の自分に、何十年後かのお前はこれこれこういうところでこんなことをしている、と今の状況を話しても信じてもらえないかもしれません。

 

それくらい、変わってしまうことだってある。

 

けれども、当時の日記でもあれば、かつての日々が(全部とは言わないまでも)よみがえります。

 

そうしてそこに、過去との対話が生まれるのです。

 

かつての自分との「再会」を味わうことができると言ってもいいでしょう。

 

そこには、懐かしさもあれば、もうすっかり忘れてしまったこともあって、他人のような気がすることも、もしかしたら少しは感じるかもしれない。

 

その一方で、状況は違っても、変わらないものも発見できると思います。

 

(当たり前ですが)やっぱり自分だなあ、変わってないやといった塩梅に、自分らしさの首尾一貫性を確認できたりもする。

 

確かにそのころはそんなことを考えていたと思い出して、懐かしさに浸れるでしょう。

 

また、何かしらの成長を発見できるかもしれません。

 

もし日記に、買い物の記録があったのなら、どんなものを食べていたのかが分かります。

 

忘れてしまっていたけど、こんな食生活だったんだ、とその頃の自分を愛おしく感じるかもしれませんし、意外と頑張って自炊してたんだと、懐かしく感じるかもしれません。

 

このころに自分に対しても、恥じないように生きてみようとエネルギーをもらえることもあるでしょう。

 

初心に帰って、気持ちを新たにすることだってある。

 

手帳を、タスク管理だけに使うのはもったいない。

 

もっと自分の生活を残したほうが楽しいです。

 

どんなに些細な、取るに足りないルーティーンでも、未来の自分への何かしらのメッセージになりますから。

 

少なくとも、今日この日を生きた、成果がなくとも、生きて明日につなげた、それだけは記録できるでしょうし、それだけでも、メッセージになると思います。

 

生きた証しを残しましょう。