手書きって、ただの物質、つまり「紙+インク」じゃない

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

コロナのせいでコーヒーの試飲が中止になってた夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

なじみのコーヒーの豆屋さん、自家焙煎のお店に行ったら、コロナウイルスの感染を防ぐためコーヒーの試飲を当分中止しますとの張り紙が。

 

ここの試飲、楽しみにしていたのに。

 

コロナの影響、蔓延してます。

 

そう言えば、日曜の午後は「コロナ」だったよねって、どんだけの人が分かるんだ?

 

とある地方では、日曜の午後のテレビコマーシャルは「コロナ」の湯沸かし器とかが中心だったのさ。

 

大丈夫なのだろうか?

 

それはともかく、ネットのニュースで、「培養肉」が取り上げられてました。

 

世界的には人口が増え続けていて、このままではお肉の生産が足りなくなる、加えて「と殺」に対するマイナス感情もあって、人工肉すなわち培養肉の研究が進んでいるのだとか。

 

要は試験管の中で、お肉の細胞を分裂させる、ということらしいです。

 

で、結構いいところまで進んでいるみたい。

 

でもそれって、ただ培養して増やしただけでしょう?

 

果たして「肉」なのか。

 

筋肉として動いたり、体を支えたりしていないのに「肉」だなんて、しかもそれを食べる日が来るなんて想像できない。

 

「物質」と「生命」は違うよね。

 

「もの」をいくら積み重ねても「もの」、でも「いのち」には生きていた証しがある、と思う。

 

確かに筋肉を分解したり分析していくと、「物質」からできていると知れる。

 

でも、逆に、その筋肉を構成している物質を積み重ねても生きた筋肉にはならない、と思えて仕方がない。

 

そこが、命の不思議なところなのでは。

 

レゴを積み重ねているのだけれど、命が宿ると、ただのレゴの集まりではなくなる。

 

同じことが、紙と筆記具にも言えると思います。

 

紙の筆記具も、どこまでも「物質」です。

 

紙は木材の繊維、パルプとかセルロースとかだし、筆記具のインクは、化学薬品だったり、鉛筆だと炭素や粘土だったりします。

 

筆記具そのものは、プラスチックあり金属あり、鉛筆なら、木材というか木だったりします。

 

紙もそれに字を書くものもどこまでも物体なのに、ひとたび手で書き込まれると、それはただの物質を離れます。

 

漫画や小説なんかで、直筆の原稿のことを「生原稿」というがごとく、そこに「いのち」が宿ると言ったら大袈裟でしょうか?

 

でも、彼女からもらった手書きのラブレターとか、もう会えなくなってしまった大切な友人からの手紙とか、その正体は、紙と文字を構成するインクなどの「物質」です。

 

ですが、手書きのそれらは、かけがえのなさとオリジナルな思い出において、ただの「もの」ではありません。

 

そう簡単に捨てられるものでもないし、邪険に扱える物体でもない。

 

これが、ワープロで打たれ、プリントアウトされたものなら、たぶんそこまでの思い入れも持てないかもしれません。

 

文字でなくても、親御さんなら、子供が小さい頃に書いた「パパの似顔絵」なんかを丸めて捨てられるでしょうか?

 

手書きには、「いのち」が宿っている。

 

それは自分が自分に向けて書いたものでもそうだと思うのです。

 

手書きには、不思議な力がある。

 

その力は、紙に宿っているのではないし、筆記用具にあるのでもない。

 

「紙に手で書いた」事実から、立ち上ってくるものなのでしょう。

 

手帳やノートには、紙(神)が宿っているのです。