ホワイトデー、世間は盛り上がってるの?

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

ホワイトデーな夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

ホ、ホワイトデー、だよね?

 

例年、こんなだっけ?もう少し盛り上がっていたような?

 

コロナで自粛?

 

近所のスーパーは、店内のお飾りがひな祭りだし。

 

お菓子の箱の陳列も少ないような気が。

 

ホワイトデーの歌とかキャラとかあれば、また違ったのでしょうか?

 

それとも、盛り上がっているところは、「いち、に、さん、ダーッ」みたいに元気に盛り上がっているのでしょうか?

 

春のイベントとしては、この後花見というメインなやつも控えていますが、コロナの動静いかんによっては、寂しいものになるのかしら。

 

市役所に行ったら、公のイベント、集会軒並み中止になってました。

 

図書館には、高校生以下の方は来ないように、という張り紙まで。

 

下を向いて歩いているような沈痛さに覆われているようです。

 

歴史的な日付の日に何をしていたか、例えば太平洋戦争の開戦の日に、例えば敗戦の日に。

 

最近だと、3.11のあの日に。

 

コロナ騒動には、「この日」というのはないのかもしれませんけど、パンデミックの時期にどうであったか、日本や世界が騒然としていた時に、自分はどのような生活をし何を考えていたのか、書きつけておくのもあとで役立つでしょう。

 

新聞やテレビで報道されるような「大きなニュース」は、いくらでも残りますが、人々の日常はどうであったかは、残りにくいもの。

 

でも、大きな主語のはざまに、人々の生活というものは確かにあったのですから。

 

何気ない日記の1行が当時を伝える貴重な記録となることもあるのです。

 

どこまでいっても、私たちは自分の身の丈からしか世界を見られません。

 

でも逆にそのことを書けばいい。

 

コロナの感染の広がりで、日本がどうしたアメリカがどうだ中国はこうだなんて、大きな主語で語らないで、自分の身の回り数メートルがどうであったかを日記にしてみてはいかがでしょう。

 

数十年後には、それもまた一つの歴史の証言としての価値を持つかもしれません。

 

市井の様子、人々の暮らし、別に網羅的でなくてもいい、断片的でかまわない、確かにその時代を生きた個人としての思いとか生活の具体を書き記せばいい。

 

書くという行為には、書かなかったという欠落がついて回ります。

 

したがって、書けば書くほどその欠落もまた明らかになる。

 

でもそれは史料の常です。

 

360度の見晴らしを一度に俯瞰することはできません。

 

まるで、潜水艦の潜望鏡から世界を覗いたようにしか、私たちは周りさえも見ることができない。

 

だからなおさら、「数」が必要なのです。

 

一つでは弱い望遠鏡でも、数を頼みにすることで、宇宙からの微弱な電波を捉えられる。

 

大きな主語の歴史だけでなく、個々の人々の証言もまた、歴史というタペストリーを紡いでくれるのです。

 

というわけで、話が大きくなりましたけど、今日あなたが書いた手帳や日記の一節は、現代史の一節に連なるのです。

 

新聞の1面だけが歴史を作っているのではありません。

 

大事件だけを並べたら現代史の年表になるかと言えばそうでもない。

 

時代からの電波をどう受信するか、感度のいい「電波望遠鏡」になることもまた楽しいものですよ。

 

積極的に、時代の証言者になってみましょう。