コロナの後をにらんで、「当たり前」なんてない

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

穏やかに暖かい夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

衰えないコロナ。

 

でもこの機会に、コロナの後のことにも思いを巡らせてみましょう。

 

普通、災害が起こったら、一刻も早く復旧をと考えるものですが、今回のコロナ禍は、あまりにも深いところまでえぐり出したというのでしょうか、いろんな「当たり前」を破壊しているように見えます。

 

なので、おそらくは、「元に戻す」のが、正解ではないのでしょう。

 

これを機に、働き方であるとか、教育の在り方とか、どのような社会を目指すのか、どのような政治に期待するのか、まさに革命級の変革が社会全体でなくても、起こるように思います。

 

これまで「当たり前」であった、殺人的な満員電車とか、みんな一斉に始める歩調を合わせた教育とか、家族や夫婦といった大切な社会の在り方とか、一部かもしれませんが、根本的に「このままでいいのか」という見直しがなされることでしょう。

 

変革の中で、消えていく職種ももちろんあるでしょうし、オフィスの風景も変わっていくと思います。

 

単に、システムが変更になったという以上に、人々の気の持ちようというか考え方も変わっていくでしょう。

 

「これはこうでなければならない、なぜならこれまでそうしてきたからだ」という「保守派」は変化についていけないでしょう。

 

大きな主語ではなしに、小さなコミュニティがこれまで以上に生活の主役となるでしょう。

 

「日本は」とか「日本の貿易は」とか、国内総生産の伸びがどうしたとか、一人当たりの生産性がどうとか、そんな「数字」に還元されない新しい幸福度の指標なんかが出てくるかもしれません。

 

様々な数字から言えば、日本はもう先進国ではないとの分析があります。

 

どうだっていいやそんなこと、それでも、うちらのコミュニティは元気だし幸せだ。そんな集まりが、各地にできると面白い。

 

わざわざメキシコから、カボチャを輸入しなくてもいいではありませんか。(なぜか近所のスーパーでよく見るんですよ)

 

貿易とか国際収支とか、コンテナ船の稼働率とか、そういったことからすれば、国内でカボチャを流通させるより、地球の裏側のメキシコから輸入したほうが、金額的には大きなものになるのでしょう。

 

でもそれで、誰が幸せなのか。

 

鎖国をして自給自足をしろとは言いませんが、小さい社会で構わないじゃないかと思います。

 

ともかく、元に戻るという選択肢は、かなり低いのではないかと思うのです。

 

多くの人が、今ある「当たり前」に不満で、そしてその不満を表明してもいい、変えてもいいという段階に来ているように思います。

 

コロナによって、半ば強引に。

 

大きな社会、日本全体とか、ある業種丸ごととか、会社全体とか、そういうのは変わらないにしても、自分の周りからは、変えられる兆しが見えてきてはないですか。

 

もう我慢しなくていいし、義務なんてないし、誰かを犠牲にするのはばかげている。

 

コロナの後、あなたはどう生きるのでしょうか。

 

忘れないうちに、手帳かノートを開いて、書きなぐりましょう。

 

自分は、本当は、こういう生き方をしたかった、それを具体的に書いて、もしそれが難しいとか不可能に見えるのなら、どんなことが不可能にしているのか、それもまた書いてみましょう。

 

猛威を振るっているコロナも、いつかは止みます。

 

その時に、自分の決意がはっきりしていないと、「元に戻ろう」という圧力に押し込まれるかもしれません。

 

そうならないためにも、自分の本音と向き合い、はっきりと文字にすることが今すべきことだと思うのです。

 

「当たり前」なんて、ないんですよ。