コロナの後で、我々の暮らす社会は、大きく変貌する
こんにちは。
てらぴーだよ。
多くの人が、コロナの感染は、パンデミックであるにとどまらず、社会的な変動、それこそ世界同時革命にも似た変革であるととらえているようだ。
もちろん、まだ感染は収まっていないので、感染が広がっているさなかに、ポストコロナを論じるのもどうかとは思う。
けれども、社会のあちこちで露呈しているあるいはしてきているほころびは、思いのほか深いようだ。
日本という国がどうなるかではなく、世界がどうなってしまうのか、もっと言えば、人類がどのような選択をするのか、そんなところまで届く問題提起がなされているように思う。
簡単に言えば、コロナが終息した後で、私たちはどのような社会を選択するのか、だ。
おそらく、元に戻すだけでは済まない。
これまで正しいとか、当たり前とされてきた、いろいろなシステムや習慣や制度といったものが、根本的に見直しを迫られるに違いない。
2択で言うと、「これでいいのかよくないのか」ということになろうか。
例えば働き方。
すべての職場ではないにせよ、これまで導入が困難だとされてきた在宅勤務とかが、必要に迫られて実行してみたらできた、のみならず快適だった、という会社職場は多いに違いない。
大都市のあの満員電車に乗らなくて済む、自分で時間を有効に使える、上司とのやり取りも簡略化される。
いいことずくめではないにせよ、これからもこうであったら、という事例をコロナは明らかにしているのではないかと思う。
例えば教育。
ネットで配信される学習のコンテンツが身近にあると、自学自習のできる生徒は学習を進められるし、理解できていない生徒も、何度でもやり直せるし前に戻って見直しもできる。
同じ時間に同じ場所で同じことを学ばなくてもいい。
それでも、集団で学んだほうが楽しいし、効率もいい、という学習などでは、従来通りの集団授業を続ければいい。
例えば体育とか音楽とか。図画、工作なんかもそれにあたろうか。
要するに、金太郎飴のような教育をやめればいいのだ。
同じ日時に初めて、同じ日時に終わっても、生徒の学習到達度には違いが出てしまう。
それをそのまま次の学年に送り込むから、学力差が生まれるし、その差は開くことはあっても、追いつくとか逆転するというのはほぼ不可能だ。
学校での学習に秀でた子も、そうでない子も救えない、というのが従来の学校教育ではなかったか。
もちろん、学校での学習だけが「学び」ではないけれど。
例えば、生活。
何かしらの非常時ともなれば、普段私たちが、どのような社会に暮らしているのか、その仕組みがあらわになることがある。
外出自粛が長引くにつれ、医療従事者への感謝だけでなく、この社会を根元のところで支えている方々の存在もまた、浮き彫りになっているように思う。
ごみ収集に携わっている人々、物流を担っている方々、食料の生産から販売までのシステム。あるいは電気ガス、水道などの設備。
絵本の定番のようなテーマに、「はたらくくるま」とか「はたらくおじさん」のようなものがあるけれども、こんなことでもなければ、あまり日ごろは関心を向けなかったのではないか。
生きていくためには何が必要で、それらは、どこで作られて、どのような仕組みで、自分の元に届くのか。その一つ一つに誰かが携わっている。
そしてその人たちにも家族があったり、普段の生活がある。
そうした社会のつながりを、今後どうしたいのか、「元に戻す」でいいのかよくないのか。
誰もが考えないと、どこかで「声の大きい奴ら」に、勝手に決められてしまうかもしれない。
誰もが自分の属している社会(コミュニティ)の主人公なのだ、ということに気づかせてくれたことも、コロナのお手柄かもしれない。