手帳やノートの類は「生活必需品」か「嗜好品」か

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

週末も終わった夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

コロナ禍も落ち着いて、「元の生活」に戻りつつあるのでしょうか?

 

それとも、「新しい生活様式」が模索されていくのでしょうか?

 

第2波とか3波とか言われてますので、油断はできません。

 

俗に「衣食住」なんて言いますが、私たちの生活には、それこそおびただしい「モノ」があって、部屋とか家に収まりきらないぐらいです。

 

そうした、「モノ余り」を背景に、やましたひでこ先生の「断捨離」も受け入れられたのでしょう。

 

ポストコロナの世界では、このあふれている「モノ」とどう向き合うか、ということもまた、大切な課題となることでしょう。

 

世界のどこかに「工場」を求めるグローバリゼーションというのは、果たして正しいのか?

 

世界が一つのシステムとなって、農産物を生産する国、エネルギーを供給する国、工業製品を生産する国、それらの物流を担う国、といった役割分担を「世界システム」と呼ぶことがあります。

 

問題は、これからもそういうのを続けるのか、というところにあるのでしょう。

 

言うまでもなく、大量生産で価格を安く抑えられるので、大量に売ることができる。

 

おそらく、原材料費は、これ以上安くできない限界にきているので、削減するんだったら人件費。

 

かくして、人件費が安かった中国が「世界の工場」になって発展したことは、歴史の必然だったのでしょう。

 

そして中国でも、人件費が高騰してきたので、さらに安い人件費を求めて、ベトナムなどに生産がシフトしている。

 

そのベトナムで、経済発展が続けば、人件費が高騰し、さて、そうなるとどこに行くのか。

 

いつまでこんなことを続けるのか、その前に、「大量生産、大量消費」を見直したほうがいいのではないか。

 

コロナ禍が突きつけたものが、それだと思うのですよ。

 

少し前から広がっている、少ないもので暮らすという「ミニマリスト」なる生活様式も、この見直しの傾向に拍車をかけるでしょう。

 

さて、それでは、手帳やノートは、どれくらい必需品なのでしょうか?

 

生活、もっと根源的な言葉を使えば、生きていくうえで、なくてはならないものなのか、なかったらなかったでなんとかできるものなのか。

 

「ごはん」は必要ですよね。

 

ご飯を食べるためにお箸とかお茶碗が必要です。

 

もちろん、ご飯(お米)をたくために、炊飯器もいりますし、しゃもじだってあったほうがいい。ご飯茶碗だけでなく、お味噌汁なんかを飲むために、お椀も必要でしょう。

 

かと言って、一人暮らしなら、お箸は原則一膳でいいわけだし、茶碗のセットも一式あれば事足りる。

 

こんな風に見直しをしていくと、家にある紙製品、中でも手帳やノートの必要度って、どれくらいなんでしょうか?

 

よく、メモするのに、「チラシの裏」を使うという話しを聞きますし、僕もかつてはやってましたが、それで代用可能なのでしょうか?

 

ムリだよね。

 

ここはムリということにしましょう。だって無理だから。

 

「無理無理無理無理」という定番のセリフがあるようですけど、まさにそれ。

 

まあ、百歩譲って、スケジュールは、スマホやカレンダーで何とかするとしても、日記機能とか、メモはどうする?

 

カレンダーの裏?

 

不用になったコピーを小さいサイズで揃えて切って、束ねて裏をメモ帳にしているという人は多いと思います。

 

でも、中には、そんな用済みのコピー用紙が手に入らない人もいるでしょう。

 

用が済んだら捨ててしまってかまわないメモならまだしも、自分の考えや思い付きを書き記したメモは、捨てるに忍びないもの。

 

それに、日記とか生活の記録みたいなものは、何年もたまるほどに愛おしくなるものですよね。

 

それに、紙が安く手に入るからこそ、いろんな使い方ができたり、新しい使い方も生まれようというものです。

 

ノートなんかが、1冊数万円とかではなしに、100円前後、時には数十円で手に入る世界だからこそ、安心して気軽に手帳ライフを楽しめるのです。

 

必需品にして嗜好品、あればあるほど、書けば書くほど楽しくなる、「断捨離」には適さないモノだと思います。