自分の頭で考えるためにまずは「読む」

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

自粛疲れか反動か人出の増えた夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

気がつけば、5月も後半。長いなコロナ。

 

このままなし崩しにwithコロナの時代になるのか。

 

教育の分野でも、「自分で考えること」の重要性が、ますます求められるのでしょう。

 

なので、自分なりの学び方を習得しておいたほうがいいでしょう。

 

と言っても、どこかに「正解」があるのではありません。

 

誰かが提供してくれるプログラムに従って、階段を上っていけばそれでよし、なんていう「自走操縦」なシステムもないのです。

 

何か大きなものの後についていけば安心で安泰、というのが終わったのです。

 

逆に言うと、自由になった。

 

でもその自由の範囲はものすごく広くて、これまで通り誰かに付き従う自由さえあるのです。

 

自分の意思を0から100まで選べるのだ、と言い換えてもいいかもしれません。

 

とは言え、白紙の地図を渡されたわけでもない。

 

補助線というか、水先案内人もいるので、何から何まで自己責任というものでもありません。

 

その「補助線」や「水先案内人」にあたるのが、「他人」です。

 

「先達の意見」のことです。

 

具体的には、書物です。

 

最近の傾向として、Youtubeなどの動画コンテンツも入るでしょう。

 

それらを参考に、自分の意見を鍛え上げていけばいい。

 

けれども、「使用上の注意」ももちろんあって、どんなに「偉い」先達であっても、妄信してはならないこと。

 

特にわかりやすい、信奉者の多い人の意見には、「信者」も多く集まるので、注意しておかないと、いつの間にかその人の意見が自分の意見に「憑依」しますから。

 

自分の空っぽの頭を差し出して、「意見を入れてください、お願いします」なんて、無条件降伏してはなりません。

 

つらくても、自分で考える。

 

他人に自分を任せてはなりません。

 

そのためにも、旧来の方法ですけれども、読書の重要性は少しも揺るぐことはないでしょう。

 

危惧されるのは、読書をせずに自分の意見を構築すること、つまり先達の意見を聞かないで、ただ耳目に入ってきた情報をうのみにして自分の考えだと錯覚することでしょう。

 

流されるままに、いつの間にか溜まっていた「考え」をそのまま妄信することほど、無責任なこともないでしょうから。

 

情報を「読んで」そして「考える」

 

手っ取り早く済ませようと、「他人の意見」に寄りかかってはなりません。

 

さて、そうすると、自分で考えるためには、まず何よりも情報の収集が必要であり、集めた情報を適宜まとめ、整理して、自分の中で自分なりに体系化もしつつ、表明できるようにしておいたほうがいいでしょう。

 

そのためにも「読む」力を鍛えましょう。

 

本や動画、文字で書かれたものからビジュアルなものまで、対象からどのような「意味」をくみ取るのか、その力が読解力です。

 

もっと言えば、対象から意味をくみ取りつつ、逆に意味を与える行為、それが「読む」ということにほかなりません。

 

特に、自分と近しい、あるいは同意できる「先達」が見つかったら、大いに参考にすべきでしょう。

 

けれども、どこかに批判精神は忘れないで残しておきましょう。

 

本が読まれなくなった、という言説を聞いてから、かれこれ四半世紀以上経った気も致します。

 

コロナを機に、文字資料を読む機会が増えればいいのですけれども。

 

自分の頭で考えるということは、何にも勝る快感を味わえるということでもあるのですから。