手書きは時間がかかる、だからいいんだ
こんにちは。
てらぴーだよ。
布団まで湿っぽい夜に、手帳の時間です、
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
禍を転じて福と為すと言いますが、今回のコロナ禍をきっかけに、どのようなプラスが、私たちの社会にもたらされるのでしょうか?
まだまだ終わりの見えない段階では、何も言えません。
とは言え、働き方をはじめ、変化の萌芽も感じられるところです。
混乱は続くでしょうけれど。
働き方、学び方、それにプライベートな生活の在り方にまで、何かしらの見直しが迫られるのではないかと思います。
もしかしたら、コロナがこの国の数十年、場合によっては100年以上の蓄積に改革を迫ることになるのかも。
仕事の在り方、学びのスタイル、人間関係のカタチ、コロナが変えるというよりも、これまで変えたいという声が上がっていたにもかかわらず変えられなかった、その背中を押したのがコロナ。
「地殻変動」は、うごめいていたのです。
ならば、時代はよりデジタル、よりAI依存に向かうのか?
ここで、効率を離れた分野が表れてもいいのではないかと、アナログ派は考えてしまう。
字を「書く」のではなく「打つ」になって久しいですけど、それでも、いやそれだからこそ「手書き」に注目が集まるように、ゆっくりでいいんだ、効率を無視していいんだといった世界もまた、この世に残ってほしい。
普段の生活でも、時間をかけて梅干をつけるように、「そんなの買った方が安い」とか「機械に任せればいい」とか、「タイムマネジメントから考えてあり得ない」と言われるようなことをあえて大切にしてみる。
すべてを明治時代以前に戻すということではなくて、人それぞれ生活の中で「豊かさ」を捉えなおしてもいいのではないかと思っているのです。
手書きはその最たるもの。
自分のその時の思いや考えを、自分の手で、自分の好きな筆記具で、自分の選んだ紙に、それなりの時間をかけて書き記す。
たったそれだけのことなのに、今の時代では、贅沢なこと、またはなかなかできないことになっているのではないでしょうか?
昔の当たり前が、今の非常識になっている。
もちろん、「今の非常識」になったのには、歴史上の必然というものもあったのでしょう、例えば洗濯機の普及。もう手洗いには戻れない。
それでも、抗いたい。
手を使うからこそ「ヒト」なのだ、と。
デジタルは便利で、あらゆることを簡便に、時間短縮してはくれますが、その一方で、僕たちのアナログな「凸凹」も均一化していくみたいで。
ワープロで印刷された年賀状のあて名では、誰からのものなのかが分からないように、デジタルの世界では「個性」も平均化されるのでしょうか?
「誰がつくったのかわからない」「誰がつくっても同じ」ものに囲まれて、私たち個人個人も個人名よりも、暗証番号やパスワードが信用されるようになってます。
だからこそ、せめて手書きの文化は、残していきたいと思うのです。
時間をかけざるを得ない、どうしても時間がかかってしまうことの中に、人間らしさもまた、潜んでいるように思うのです。