手帳は、航海日誌ともなりうる、現代社会への
こんにちは。
てらぴーだよ。
土砂災害警報が2回も出された夜に、手帳の時間です
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
突然スマホからけたたましい音が!
この大雨による土砂災害の警報でした。
しばらくして又。
地域は違いますが、同じ警報が2回も出されるなんて。
時折り音を立てて雨が降ってました。
今は落ち着いているようです。
日々のこんな天候なども、手帳の片隅にでもちょっと記入しておくと、後で読み返したときに、記憶がよみがえるかもしれません。
時々、片づけの折などに、古い手帳とかノートの類が出てくると、思わず読み返して、しばし時間を忘れ、ついでに片付けも忘れて読みふけることがありますよね。
その昔、小さい頃、家の大掃除で畳を上げたとき、下にひいていた古新聞を思わず読んでしまったこともあります。
あの、手を休めて読んでしまう力は、どこからきているのでしょう?
今日も、手帳や野帳に自分の生活のあれこれを記録しているわけですが、そのほとんどは、後で読み返すとどうでもいいことなのだと思います。
何時に起きたから始まって、トイレに行ったとか、ご飯は何を食べたとか、まさに日常的なことばかり。
読書に明け暮れたとか、国際情勢を憂えているとか、今ならコロナ禍の行く末に頭を悩ませているとか。そんなたいそうなことは出てきません。
身の回り3メートルで完結するようなことばかり。
スクラップにしても、特別なものは何もなく、買い物のレシートを張り付けるくらい、それも最近はさぼってますけど。
でも、そんな日常こそが少なくとも僕の生活のほとんどなのですし、そのような日常から、広く社会とか世界のことなどを考えていける土台ではないかと思うのです。
普段の日常を離れて、大きい主語で考えることは、一面かっこよかったり、何事かを考えているという気分に浸れるかもしれませんけど、やはりどこか地に足のついていない議論になりはしまいかと危惧するのです。
どんなに距離を取ろうと思っても、あるいは無視しようと考えても、大きな状況、日本社会が抱える諸問題とか、今世界で問題になっていることとかは、確実につながっていると思うのです。
そして、つながっている以上、無視はできないし無関心を決め込むことも(本当は)できない、そのように思います。
逆に、日常を離れての議論では、言葉が上滑りをしてくるように感じます。
「日本はこうするべきだ」とか「日本が抱える問題はこうだ」とか、「アメリカとはこうすればいい」とか、「中国に対してはこうしたほうがいい」とか。
ネットなどで、そんな大きい主語の議論を見るにつけ、中身はどれくらいあるのだろうと考えこんでしまいます。
もちろん、そのような問題を誰かに託すというのも危険な選択でしょう。
その進路の選択によっては、私たちの日常にダイレクトに関わってきたりしますから。
けれども、出発点を普段の生活に置くという基準点の在り方を変えるつもりもないのです。
例えば、これからの社会の在り方が、何か大きい制度とか政策にではなくて、近所のスーパーの品ぞろえから見えてきたりするのかもしれません。
あるいは、そうした、毎日の買い物をしているその場所が「現場」になるのかもしれない。
自分の毎日の生活のありようを、割と細かく記録していく中で、この世の中が進みゆく方向性も見えてくるのではないかと、ひそかに狙っているのです。
手帳はだから、僕自身の航海日誌なのです。