人間には人間の世界がありカエルにはカエルの世界があって、でも元はひとつだ

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

満月なのに曇っている夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

手帳の表記によると、今日は満月らしい。

 

けれどもあいにくの曇り空なので、お月様は拝めまい。

 

よく、あの雲の上は必ず青空だ、みたいな言い方があるけれど、そこには確かに存在しているのに、感知できないことがある。

 

例えば、光。

 

よく例として挙げられるのが、人間の視覚と昆虫のそれはずいぶん違うのだ、ということ。

 

同じ花を見ても、人間は「黄色」の花だと思っても、その花に群がるチョウチョなどにしてみたら、紫外線を感じているらしく、まったく違う「色」を認識しているのだそうだ。

 

私たちが感じる光は、「可視光線」という電磁波の一つで、それはずいぶん狭い領域、つまり電磁波全体から見たら、ほんのちょっとしか「見て」いないことになるのだという。

 

だから、にんげんがみているせかいとほかのいきものたちがみているせかいというのは、ぜんぜんちがうのだといだから、人間が見ている世界と他の生き物たちが見ている世界というのは、全然違うのだということになる。

 

しかも、生き物の種類というか種族別に、それぞれ異なった「世界」があるのだから、世界はいったいいくつあるのだろう。

 

人間が感じる世界と、モンシロチョウが感じる世界は違う。

 

同じように、カエルが感じている世界もまた違うのだろう。

 

視覚でさえこうなのだから、他の「音」や「におい」「味」なんかも、人間が感じられるのはほんの一部で、他の生物はその生物の世界を独自に生きている。

 

単純に、「青空」が広がっていると、「気持ちがいいな」「さわやかだなあ」なんて思うのだけどそれは、人間だけで、犬には犬の「空」があり、トカゲにはトカゲの「空」がある。

 

もしかしたら、「空」を感じない世界観を持っているかもしれない。

 

とはいえ、まったく別世界にお互い暮らしているのではなく、言ってみれば同じ「時空」に生きてはいるわけで、人間の活動による「環境破壊」の影響は、すべての生き物の生態系に及ぶ。

 

残念ながら、ヒトとして生きていくということの内に、環境に対する負荷をかけているということが、背中合わせのようにくっついている。

 

「生きたいように生きればいい」という路線におおむね賛成だが、何をしてもいいというわけでもない。

 

その辺のバランスは、もうずいぶん前から指摘されてはいることだ。

 

そして、「持続可能な社会」へと模索が続く。

 

「個人」としての生き方の在り様が、そのまま社会や世界へとつながっていく、その回路を細くすべきではないのだろう。

 

いしだ壱成というタレントが、知らない間に白山のふもとで農業をしているらしい。

 

その「転向」は称賛されてしかるべきではないのか。

 

次世代の社会の在り方の軸の一つに「農業」は必ず顔を出す。

 

ついでに、林業にも、「第6次産業」が広がりますように。

 

どんなに世界のほんの一部しか認識できないのだとしても、その世界でしか生きていくことはかなわない。

 

限られた世界かもしれないが、それでも世界は美しい

 

今日自分がしたこと、明日すること、それがどんなにパーソナルなことであっても、たどっていけば世界全体につながっていくだろう。

 

どこかで切れたり完結したりはしないのだ。

 

私たちの体も、身の回りのものもすべて、もとはと言えば「地球」から生み出されてきた。

 

だとしたら、すべてはひとつなのだ。