コロナ禍で混迷はしていても、自分の「好き」は外せない
こんにちは。
てらぴーだよ。
雨が降り続く夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
雨の日に、一人引きこもっていると、本当に世間から隔絶されているような、別世界の住人になったような、そんな気分になってきます。
世間は、「ポストコロナ」なのでしょうか、コロナとの戦いで言えば、「戦後処理」の時期なのでしょうか、それとも「ゲリラ戦」のような、局地戦が行われているのでしょうか?
今日のこの梅雨空のように、なんだかはっきりしません。
世界はどうなろうとしているのか、個々の人に何が求められているのでしょうか?
世界と個人をつなぐ回路は、どのような状況にあるのでしょうか?
そんなに短期間で仕組みが変わるわけもなかろうとは思うものの、働き方や教育は、どんな方向に進もうとしているのか。
誰がその「進路」を決めているのか。
磁石というのは、その内部において、N極とS極がそろっているのでいつも同じ方向を指し、また金属を引き付けるのだといいます。
日本の高度経済成長の時期がまさにそれで、ほとんどの人が同じ方向を向いていて、その方向に進むためにエネルギーを出していた。
どこかの家にテレビが入れば、次第にほかの家にもテレビが入る、テレビの次は冷蔵庫とか、誰もその流れを疑問に思わなかった。
今、そのような、人々を同じ方向に向けていく磁石が、ない、のだと思います。
そしてそれは、何かしらの「進化」であるのでしょう。
ただ、あの時のような「そのうちみんなの家庭に冷蔵庫が来るぞ、必ず」といった、「予言」ができなくなっている。
それでその分、「私たちはどこに向かっているのか」という不安も膨らんだりするのでしょう。
毎日の生活は、ほとんど同じことの繰り返し。
ですから余計に、どこに進んでいるのかが見えにくい。
高度経済成長の時のような磁力も方向性も、もうこの社会にはないのでしょう。
コロナ禍で、問題はあぶりだされたものの、終息=元通りの図式よろしく、変化はいまだ現れてはいないようです。
個としての生活が、社会の流れの中で、どのように変わっていくのでしょうか?
よく、自分の軸を持つなどと言いますが、その軸を確かなものにするためにも、「書く」という手法が有効ではあるでしょう。
流されずに、自分を見失わずに、世間の中で生きていくために。
ともすれば、「その他大勢」になって、並びたくもない行列に並んでいるかもしれません。
仮に並んでいたとしても、そのことに気づけさえすれば、行列を離れることもできるでしょう。
疑問も持たずに、人のふり見て我がふりを合わせることもないからです。
混迷の時代には、お手本があるようでない。
その前に、自分はどのような進路を取りたいのか、はっきり決めるべきだと思います。
誰かの差し出した選択肢しか選べない、ということもないでしょうから。
ただ、これからは、ますます自分の「好き」にこだわれる時代になるのではないか、そんな希望も感じてはいます。
図書館で、適当に借りた本が、ジャンルなどは違っても同じようなテーマで結びついていることがあります。
コロナ禍というシビアな現実はあるでしょうけど、自分の「好き」がこれからの生き方の土台となるでしょう。
「好きこそものの上手なれ」ということが指針として前景に現れてくるのです。
あなたの「好き」をノートに書き出して、生活の中で実現していきましょう。