毎日似たような「日記」が続いて、そろそろ限界

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

雨の七夕の夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

せっかくの七夕なのに雨。

 

梅雨の時期に、わざわざデートの約束をしなくても、と思う。

 

万有引力

 

引き合う孤独の力である」

 

と詠んだのは谷川俊太郎さんだ。

 

雨が上がったら、友達に会いに行こう。

 

ていうか、今は会わなくても、近況を語り合える時代なのでした。

 

人に会う時間も、短縮されているよね。

 

織姫と彦星も、今ではラインかなんかでやり取りしていて、天候や「1年に1回限り」なんて制約から自由になっているのかも。

 

それはそれで情緒のないことだとは思うけど。

 

生きるというのは、本当に時間の使い方だ。

 

毎朝、寝ている時間を除いた時間が「活動時間」として、自分に与えられる。

 

それをどのように使うか、何にどれくらいの時間を配分するか、それは自由だ。

 

そして、1日の終わりに、すべてがリセットされる。

 

やり直しはきかない。

 

繰り越しも貯めておくこともできない。

 

どんなに無為に過ごしても、その分は補填されない。

 

果たして僕は、今日を精いっぱい生きたのか?

 

それは何で測れるのだろう?

 

どこかで神様が見ていて、何かしらのジャッジをしているのだろうか?

 

僕の時間密度は今、どれくらいなのだろう。

 

確かに、日記代わりの「デイリー」に、30分刻みで時間軸を入れてはいる。

 

そしておおざっぱではあるものの、その時間帯に何をしていたのか、できる限り記録してもいる。

 

「成果物」をはっきりと示せないから、密度がまだまだだと思ってしまうのだろうか?

 

思ったように進んでいない事柄があるので、充実感から離れてしまうのか?

 

時間の使い方というのは、密度との駆け引きだ。

 

例えば読書。

 

常に複数の本を読んでいるせいか、デイリーには、書名などは記していない。

 

読み終わったとしても、書名の記録はしない。

 

野帳には、記すことはあるけれど、いつごろどんな本を読んでいたのかまとまった記録を作っていない。

 

なので、「読書」という大項目だけが、デイリーに書き込まれることになる。

 

来る日も来る日も「読書」の文字だけが残る。

 

だから、なんだか密度の薄い毎日を送っているように感じるのだろうか?

 

ことは読書だけではない。

 

生活のあらゆる事柄は、結局のところ、「インプット」と「アウトプット」でできている。

 

その中身を記録しようと努めてきたはずなのに、いつの間にかおおざっぱな記録になってしまっていた。

 

「読書をしていた」から「読書」と記入、ネットのニュースを見ていたから「スマートニュース」と記入、あるいは「Youtube」とだけ記入。

 

食事やトイレも書き入れるけど、ほとんどこれでおしまいだ。

 

そして毎日、ほとんど同じ。

 

かくして、判で押したような、という形容がぴったりのデイリーが重ねられていく。

 

これでは、後で見直しても、この日何をしていたのかその詳細は分からない。

 

数年分見直せば、「変化」はあると思うけど。

 

デイリーのために何かをするなんて、本末転倒かもしれないけど、もう少し生活を何とかしたいと思うのであった。

 

自分に新しい自分を見せ続けよう。