61のじじいが「死」について考えてみた
こんにちは。
てらぴーだよ。
肌寒い夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
今年61歳になりました。
「人生100年」と言われているのを真に受けると、後40年ぐらいは生きられそうかなとは思うものの、そんなこともなくて、世代で言うならば「人生80年」だろうとは思います。
母は81歳まで長生きしましたが、父は64歳で病気で亡くなってます。
なので、父が死んだ年齢に近づいたこともあって、自分の身支度について考えるようになったのでしょう。
身支度、というか、人生の終い方を。
それに、有名人の訃報に接するたびに、その年齢が気にかかります。
「ああ、あの人はこんなに若かったんだ」
「この年齢ならほとんど同世代じゃないか」
などとつい考えてしまいます。
今はほとんど没交渉ですけど、親戚のお葬式も増えたように感じます。
そのようなわけで、死について考えているのです。
はっきりしていることが二つあって、誰にでも必ず死は訪れる、生まれたからには死亡率100パーセントです、これは誰にも避けられない。
もう一つは、その死が、いつ訪れるのか、だれにもわからないということ。
60を超えたからもうそろそろかな、と思っていても、自分より若い人も亡くなります。
痛ましいのは幼い子の死で、ニュースなんかを見るたびにこちらまでつらくなる。
よほどの重病かなんかで、「今夜が山でしょう」とでもいう事態以外は、いつ訪れるのかだれにもわからない。
父が亡くなった時に、実感したことがありました。
それは、もう父の体には触れられないのだということと、肉声を聞くこともかなわないのだということです。
死というものは、この世の現実の生活の終わりなのです。
魂があるとか、あの世があるという議論はさておき、とにかく死んだら、もう「この世」で生活することはできません。
僕は今、アパートに住んでいますが、もし死んだら、親族か管理している不動産屋さんが、この部屋を空っぽにしてしまうでしょう。
当たり前ですが、死んだ後もこの部屋を借りるということはできない。
僕が大切にしていたいろんな品物も、僕自身が使うことはできません。
たとえ魂が残っても、あの世があったとしても。
人はいつどの時点で「死」を迎えるのかについては、いろんな意見があるようですけど、とにかく心臓が止まるとか、脳の機能が失われるとかして、意識がなくなれば死んだということなのでしょう。
そして、繰り返しますが、それは同時に、現実の生活の終わりを意味するのです。
冒頭で述べたことと合わせるならば、その生活の終わりはいつかは分からなくても確実に訪れるし、ある意味残酷なことに、「年齢順」ではないのです。
僕個人としては、魂とかあの世の存在を信じていますが、確たる証拠があるわけでもありません。
これもまた繰り返しになりますが、魂が死なずに残っても、あの世があっていつかまた生まれ変わろうとも、この世での、この生活は終わりを告げられるのです。
それが死というものなのでしょう。
ならば、私たちにできることはただ一つ。
死ぬまで生きること、これしかないと思います。
そして、できるなら、よりよく生きることです。
よりよく生きるその中身は、人それぞれで違うでしょうし、それでいいと思います。
いつ死を迎えるか誰にも分からない、でも確実にやってくる。
だからこそ、よりよく生きよう、自分に与えられたスペックを十二分に発揮して、そして「その時」には、佐藤愛子さんではありませんが、「あー、楽しかった!」と言って意識をなくしたい。
その時に、周りに家族や「仲間」がいてくれたら、言うことはないでしょう。
なので、不老不死は求めません。
科学技術とか、AIとか、脳なんとかの発展で、「自分である意識」を永久に生かせる道が開かれたとしても、その人は幸せにはなれないと思います。
もし僕が「不老不死」になったら、すべてのことに意欲をなくすでしょう。
だって死なないのだから、「これは今しなくてもいい、いつかそのうちやればいい」ことだらけになると思います。
お店のキャンペーンと同じで、人生も「期間限定」だから、飛びつくのです。
今日はもう外出しませんが、外出して事故にあったりする確率はいつも2分の1だと考えてます。
つまり、事故に合うか合わないか。
で、帰宅できたらリセットされる。
その繰り返しだと思うのです。
でも、考えてみたら、いつでも死亡確率は2分の1なのでしょう。
今日は無事生き永らえました、また明日は明日で2分の1。
そう考えて毎日を過ごすと、感謝の念も沸こうというものです。
どんな人生も自分にしか体験できない、と考えたら、ずいぶん貴重な体験を毎日しているのだと思いませんか。
生きているプラスマイナスそのすべてが、自分のものなのですから。