手帳は美しい、また、書くこともあることも美しい
こんにちは。
てらぴーだよ。
夜空を見上げられない夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
「妹よ、
今夜は雨が降っているので、
お前のオルガンが聞けない」
という詩を読んだことがあります。
作者の名前を失念してしまいましたが、読んでわかる通り、妹さんを亡くしているのですね。
夜空に輝く星々から、妹さんのオルガンの響きを聞くなんて。
美しいと同時に哀しい歌ではあります。
このように、私たちの感覚は、しばしば横断するようです。
視覚、つまり目で感じられることが、景色や光にとどまらずに、聴覚、耳で感じることに置き換えられたりするのです。
もちろん、その逆も。
こういった美意識の在り様は、私たちの毎日の生活とか生き方にどのようにつながっているのでしょうか?
その形が単純に「美しいかどうか」ということももちろんですけれども、その在り様というか「たたずまい」といった、はっきりとした形ではないけれども、そこに「美」を感じる、といったこともまたあるように思うのです。
例えば、「手帳が美しい」といった場合、何が美しいのでしょうか?
まず、物体としての「手帳」そのものが美しい、ということが考えられますよね。
形、大きさ、手に持った時の感触、いわゆるクオリア、あるいは細部の加工とかこだわりの仕掛けといったもの。
手帳を選ぶ際には、カバーの素材が革であるかビニールであるか、それとも紙であるかというのは、かなり重要でしょう。
分厚い重厚な感触なのか、軽い触感なのか。
革などの場合、「におい」もまた、選別の要素として数えられるかもしれません。
加えて重さ。
手にした時の「ずっしり」感、あるいはライトな感じ。
片手で持って、もう片方の手で開いてみる時の感触も大切でしょう。
それから中紙の薄さ厚さ、並びに触った時の触覚、めくった時の抵抗感。
手帳売り場をめぐる楽しさは、手帳を片手で持って、ページを繰る感触にありますよね。
「トモエリバー」に代表される薄さもいいし、ちょっと分厚い紙質だと、高級感も感じます。
逆に、外見と中紙が、イマイチ合ってないなあと感じる製品もあったりします。
それでも、いろんな手帳をあれこれ触れるのは、うれしい限りです。
そうした経験の蓄積が、自分なりの手帳に対する美しさの感覚を育ててくれるのでしょう。
買ったばかりの手帳には、まだ何も書かれていないので、(罫線や曜日などが)印刷されてはいるものの、「白紙」の状態だと言えるでしょう。
そこに、スケジュールであるとか、ToDoリストであるとか、行動記録などを書いていくわけですけど、その書き方にも、その人らしさやこだわり、工夫などが集積します。
いわば「自分の手帳」を作っていく感覚と言えましょうか。
買ってきたばかりの手帳は、したがって、まだ「自分の手帳」ではない。
あれこれ記入して、「自分の手帳」にしつらえられていくのです。
その書き方にも、もちろんその人の性格や好みが反映しますから、そこにも「手帳の美」というものを感じ取ることができるでしょう。
これまでに書いたページを開いたときの「見た目」、すなわち、字の書き方、色使い、レイアウト、イラスト、シール、マステ、それに付箋。
凝ったページは、「作品」と言ってもいいのではないかと思うほどです。
そこに現れているのは、書いた人の「美意識」に他なりません。
さらに、「手帳を書く」そのこと自体にも、「美」というものがあるのではないでしょうか?
机でなのか、テーブルでなのか、周りに何があるのか、どんな格好で書いているのか、どんな順番で書いているのか。
その一連の流れというか、動作にもまた、その人なりのたたずまいとでもいったものが醸し出されてくるのでしょう。
特に慣れている人なら、流れ作業のように、手帳の記入が進んでいくのかもしれません。
書いている途中でも、手帳のある風景は美しいものです。
「モノ」だけでなく、それがあることで発生する美しさ。
手帳を書くことそれ自体が、感性への刺激となるのです。