起こったことと気分の結びつきは自由に選べる、主人公は自分なのだから

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

もう少しで梅雨明けかの夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

朝方は豪雨。河川が氾濫するぐらいの。

 

しかも雷付き。

 

お昼ごろには青空が広がり、今は薄曇り。

 

目まぐるしく変わるお天気。

 

それにつれて気分も変わりがちです。

 

何が起きても「平常心」が保てればいいのだけれど、1日の内にはいろんな感情が入れ代わり立ち代わり出現してきます。

 

もちろん、そのすべてを書きとめることはできないし、その必要もありませんが、今取り組んでいることの成果を、その時の気分で左右させたくはありません。

 

そうは言っても、気分が乗らない時っていうのはありますよね。

 

皆さんは、自分の集中力なんかを何で測ってますか?

 

「気分がいい」「乗ってきた」、逆に「イマイチ調子が上がらない」「集中できない」という時、どういったことが目安になってますか?

 

例えば、集中の度合いというのは、「時間の進み具合」で感じたりしませんか?

 

何かに取り組んでいて「えっ!もうこんな時間!?」と驚いたり、「まだこれだけしか経っていないのか」と感じたりしますよね。

 

時間の経ちかたの感覚で、効率や集中の具合を測ることができます。

 

取り組んでいるものの「量」なんかでも、調子を測ることができそうです。

 

例えば、読書。

 

すいすい読み進められる時もあれば、なかなかページをめくれない時もあるでしょう。

 

もちろんこの場合は、どんな本を読んでいるのかによっても、効率やのめりこみ具合が左右されてしまいます。

 

気持ちよく集中ができていると、取り組んでいること以外には、意識がいかないものですが、何かでうまく集中に入れないと、周りの些細なことが気になったりします。

 

それは、例えば、部屋の温度であったり、肌着の感触であったり、目に入る小さなものであったり。(集中していると気にならないのに、イライラしていると「なんでこれがここにあるのだろう」と気になったりする)

 

椅子やテーブルの「脚」に、足の小指をぶつけても、「こんなこともあるよ」とスルー出来る時もあれば、「痛っ!なんでぶつかるかな、ああ、頭にくる!」と気分が台無しになるときも。

 

気分そのものは、自分で左右できると分かっていても、何かしらの出来事、したがって「自分の外側で起こること」に左右されがちです。

 

○○が起こった、それでこんな気分になった、といったふうに、気分の原因を外に求めてしまいがちですが、○○が起こっても「こんな気分」にならない時もあるし、ならない人もいるはずです。

 

つまり、「○○になること」と「こんな気分になること」の間に、実は因果関係なんてないのです。

 

すべては自分の選択通り。

 

その「選択」を考え方や感じ方の「クセ」という人もいます。

 

ということは、「○○が起きた」と「こんな気分になる」を結び付けなければいい。

 

いつだって自分は自由なんですから。

 

「○○が起き」ても、そのことをどのように考えどんな気分を選択するかは、自由なはずです。

 

ならば、自分にとっての「快」を選べばいい。

 

とはいえ、これまで何百回何千回何万回結び付けてきたことだから、切り離すのが難しいとは思いますが、その後の嫌な気分から解放されるには、結びつきを弱くするとか、ずらしていくことが求められるでしょう。

 

いつだって自分は自由なんだ、気分を選択しているのは自分なんだ、と考えることで、事態も変わってくると思います。

 

自分の主人公は自分なのですから。