汗をかけるから、自分の輪郭が感じられる
こんにちは。
てらぴーだよ。
いるだけで汗が出る夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
今日1日を丁寧に振り返りましょう、と言っておきながら、ここまで蒸し暑いと集中できません。
おまけに、手も汗ばんで、紙はすぐに波打ってしまう。
書こうという意欲がそがれるような、そんな今日。
心身共に健やか、とまではいかなくても、落ち着いていないと「書き物」はできません。
いくら、1日の内に「手帳の時間」を設けたとしても、気分が落ち着かずにイライラしていたりすれば、その時間の価値は半減するでしょう。
蒸し暑くて汗がやたら噴き出すのなら、冷房を入れればいいだけの話ですが、個人的には、まだこれぐらいでと思っているので、汗をかきつつパソコンに向かってます。
ひとしきり汗をかくと、涼やかな気分が訪れたりしますから、これくらいの暑さは受け止めましょう。
手帳などの「紙」に向かうというのも、気分を落ち着かせるものです。
それは「今ここ」に意識を持ってくることですから。
今自分が何をしているのか。
何が見えているのか。
何が聞こえてくるのか。
どんなにおいがするのか。
汗はまだ出ているか、おさまったか。
そんな自分の「今」に意識を集めることで、感覚も落ち着いてくるでしょう。
座禅をしているときに、どこかかゆいところがあったとして、でも、そのかゆみというものが、全身に広がっていけば、「全身かゆい」なので、つまり「かゆさ」しかないわけで、そうなったら逆に「かゆい」ということも感じなくなるのではないか、と考えたことがありました。
「かゆい」ところと「かゆくない」ところがあるから「かゆさ」が際立つのであって、(その結果かゆくなる)全体がかゆくなれば、つまりかゆさしかなくなれば「かゆさ」もそれとして意識されない、と考えたのです。
「痛さ」や「暑さ」なんかも同じかもしれません。
とはいえ、やっぱりかゆかったり痛かったり、暑いのですけれども。
この感覚があるおかげで、私たちは自分が確かにここにいるという「感覚」をはっきり持てるのでしょう。
皮膚があって、その外側に空気の層なんかがあって、でも、皮膚は空気とは混ざらない、その感覚が「私」の輪郭となって環境から隔てている。
五感と意識が、「私」を世界から切り離している、というわけなのでしょう。
汗をかいて、自我を確かめましょう。