「いつの間に8月?」でもそれだと、認知症かも
こんにちは。
てらぴーだよ。
稲もすっかり生長しましたの夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
8月です。と言うと、もう8月かと思ってしまうのですけど、昨日が7月31日なのだから、今日が8月1日で、それはもうわかっていたはずです。
本気で、「えっ!?8月ついたち?マジ?」と思っているのなら、それは単なる認知症でしょう。
けれども人は、どうしても「いつの間に」と思ってしまうのです。
散歩をして、水田を見ると、稲が青々とはしていますけど、もう少ししたら刈り取りかなといった風情で風に揺られています。
ついこの間田植えをしたばかりなのに、と思ってしまう。
この時間ループは、いったいどこからくるのでしょう?
何年も、あるいは十数年、場合によっては何十年も過去のことなのに、思い出すとつい昨日のことのように感じてしまう、そんな記憶が誰にでもあるかと思います。
過去の記憶が、ビデオテープによる記録なら、さかのぼるほどに巻き戻しなどで時間がかかりますけど、僕たちの記憶ときたら、まるでDVDで録画したように、「あの過去」まではひとっ飛びなのです。
「途中」の記録を無視できる。
なので気をつけないと、歳を取るにしたがって、記録はスカスカになりがちですから。
10代の頃の1年と40代の1年、さらに60代の1年は、なぜか、記録密度が異なります。
小学生のころ、1年がたつのは長かった。夏休みなんて「永遠」ぐらいの長さに感じました。
高校生の頃、25歳の自分は未来の霧の中でした。全く想像できなかった。
30になるころ、1年て短いと思い始め、50あたりで、1年=10年ぐらいに短縮されて、60代の今は、60も70もそんなに変わらない、と思うようになりました。
その、時の流れを早く感じる程度に従って、記憶の方も薄められているのでしょう。
学校に通っていたころは、1年が経つと学年が上がり、ということはずいぶん環境が違っていたものでしたけど、大人になると、会社員の場合は「昇進」や「転勤」「部署替え」などで変化を感じられるのでしょうけど、毎年変わるというものでもないのでしょう。
下手すると、もう何年も同じような仕事、並びに生活を送っているのかもしれません。
その変化のなさに呼応して、時間密度も薄められるのでしょう。
それに抗うには、記録魔になることです。
どんなにその時頭や心の中心を占めていたことでも、書き記しておかないと、あっという間に忘れ去られます。
忘れてしまうからこそ、「今日何したっけ?」と記憶に残らない。
本当はいろんなことを、考えたり感じたりしていたはずなのに、それが頭に残らないからこそ、「なんだか昨日と同じ今日でした、相変わらず平和です」みたいな、変化のない日記や記憶になり果てるのではないでしょうか?
今日の自分は今日限定です。
体も頭も心だって、日々変化しています。それが成長であれ老化であれ。
昨日と同じ自分はおらず、明日の自分もまた、今日の自分とは違う。
ならば、その「今日限定の自分」をできるだけ残してみましょう。
頭に浮かんできたことを書きとめてみるのもいいでしょうし、何時ごろに何をだれとどんな風に食べたのか、といった日記でもいい。
感情が、マイナスであれプラスであれ大きく動いたときに、その感情とその原因(と考えられること)を書き残しておくのもいいと思います。
今日1日の時間軸を見直したときに、「あれ、この時間何してたっけ?」を極力作らない。
単語でもいいから残せるようにする。「ネット見てた」で構いません。
そうやって、自分の生活をカラフルなものにしていきましょう。
今日何もなかった、というのは「白黒」です。