ロジカルシンキングを超える、美意識で鍛える直感
こんにちは。
てらぴーだよ。
終日雨が降って涼しくなった夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
くそ暑かった夏日が一転、上着が必要な涼やかさに。
適温とはいかないまでも、過ごしやすい一日だったのではないでしょうか?
私たちは毎日、いろんな「問題解決」に遭遇します。
仕事上のこともあれば、交友関係のことでだったり、それからプライベートでも。
すぐに片をつけられる簡単な問題解決もあれば、一日のほとんどを費やすようなものから、数日時にはそれ以上の日数を必要とする問題もあるでしょうし、果ては、一生掛かっても解けない難問も抱えていたりします。
さらにそこには、「優先順位」というのが絡んできて、時に、いえ、ほとんど毎回頭を悩ませる原因ともなっていることでしょう。
問題解決の集積が人生であるかのように。
それで、問題解決の手助けをするような書籍も、陸続と出版されているというわけです。
最近は、ひところはやった「ロジカルシンキング」が鳴りを潜め、もう「論理」ではなく、美意識を鍛えて直感を研ぎ澄まそう、という流れが主流になりつつあるようです。
いわゆるロンリの流れというものが「正しい」のであるならば、皆の賛同を得られ、「正解」として流布してもよさそうなものですけど、そうはなっていないようです。
現実の問題解決は、方程式を解いて答えを出すというわけにはいかないのでしょう。
もちろん中には、論理で解ける、あるいはその方が確実という問題も、あるのでしょうけれども。
でも、ロジカルシンキングが発揮されたところをあまり見たことがありません。
例えば日本経済の問題に関して、「失われた10年」がどのようにして発生したのか、さらにはどうしてそれが「失われた20年」となったのかについて、詳細な分析をされている書籍をほんのさわりだけ読んだことがあります。
データやその時々の金融政策を交えた、おそらくは筋の通った、すなわちロジカルな分析。
素人には、反論も何もできません。
けれども、ではなぜそのような精緻な分析ができるのに、「失われた10年」は、「失われた30年」へと続いてしまったのか。
ロジカルには理解できていたけれど現実には対応できなかった?
でもそれなら何のための分析なのでしょう。
後付けで、「あれはこうだった」「あれの意味はここにあった」というのなら簡単でしょう。
ロジカルに「正解」が出せなくとも、バブルの後で「失われた10年」とならない「解決策」が欲しかった。
「失われた10年」の後で「失われた20年」としないための方策が聞きたかった。
でも、なかったのではないでしょうか?(もし、そのような論考があったのなら、今頃「発掘」されて、再評価されているはずですから)
「実はこうでした」といった、手品の種明かしは見たくない。
今後考えていかなければならないのはこういうことだ、という指針を示せる人も少なくなっているように思うのは僕だけでしょうか?
気がついたら、加藤周一さんはいないし、筑紫哲也さんもしかり、井上ひさしさんもいなければ、橋本治さんもいない。晩年は地味だったように思いますけど、山口昌男さんも鬼籍に入られた。
というわけで、この国は、「水先案内人」がいない状況とも言えるでしょう。
ならば、やはり自分で考えるしかない。
その際に、指針となるのは、「論理」よりも「直感」でしょう。
または、感情。
分析なんかより、「なんかよさそうだ」「嫌な感じがする」といった感受性の方が、意外と「正」しかったりするのです。