コロナ禍で、新しい生活の在り方を直感しよう
こんにちは。
てらぴーだよ。
花火大会の中止を知った夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
そう言えば、ずいぶん前に、花火大会も軒並み中止とかなんかで見ました。
うーん、コロナ禍、生活の隅々に、まるでボディブローのように効いてきますね。
国同士だけでなく、個人と個人の分断も進むのでしょうか?
いっとき、流行り言葉としてもてはやされた「グローバル化」。
呼応するかのように、大学などで「国際関係学部」が新設されていましたっけ。
「新しい生活様式」を支える「新しい世界観」といったものは生まれるのでしょうか?
世界をどのように捉え、自分をどのようにその中に位置づけ、どのような生き方を選べばいいのか。
混迷はいましばらくは続くのでしょう。
それが、偏狭なナショナリズムへと収束するのではなく、開かれた風通しの良い、新しい生き方になりますように。
何事もなければ、それほど意識することもない、おのれの人生観や世界観というものが、根底から問われているようです。
誰かの意見や取り決めにすがるのではなく、自分でかじ取りをしなければならない。
本当は、コロナ禍などなくても、それが当然だったのでしょうけれども、世間という他人の意見や考え方を、あまりにも強くインストールしていたので、それに従うことが「自分の人生である」と勘違いしてきたのです。
もう、他人の期待に応えることはない。
では何が、自分の心からの欲求であるか、そこから見つめ直さなくてはならないでしょう。
「何が君の幸せ
何をして喜ぶ」
と、アンパンマンも歌っているではないですか。
先ごろ、と言っても数週間ほど前、ネットのニュースで二つの別々の論考を読みました。
テーマは同じでした。
ふたつとも、データを交えて、詳細に、「もう日本は先進国ではない」ということを論証していたのです。
GDPがどうだから、国民一人当たりのGDPがどうなったから、OECD内のほかの国々と比べてこうだから、といった感じで、「先進国ではなくなった日本」を素描しているのです。
専門家でもあり、高い学識も持ち、分析の実績もあり、思考もロジカルで、考察も実証的、素人の僕には、反論できるスキなどないようでした。
けれども一方で、こうも思ったのです。
これまで、国力の比較であるとか、国民や国そのものの「豊かさ」であると信じられてきた各種の「数字」や分析手法そのものを、もっと根本的に捉え直すべきなのではないか。
例えばGDPの大きさや移り変わりではとらえられない「現実の諸相」といったものがあるのではないか。
GDPとは別の「幸福度」を測る数字や考え方があるのではないか、そしてそれらは、これまでは見えていなかったものではないか。
GDPに限らず、その国の豊かさ、安全度、幸福度を測れる新しい「指数」というものを探してもいいのではないか。
今まで見えていなかったものを見えるようにすることもまた、大切なことではないか。
工業生産額がこうだから、貿易収支がこうだから、AIの導入率がこうだから、などなどこれまで取り上げられてきた数字ではないところに、新しい「生活」の可能性もあるのではないかと思っているのです。
それはやはり、人と人とのつながりといったところに求められるとの予想があるものの、コロナ禍が引き起こしていることがどう影響してくるのか、先行きは不透明です。
個人としては、アンテナを張り巡らして、敏感になることが大切だと思います。
何しろ時代は、ロジカルから直感へとシフトしているそうですから。