コロナ禍が与えてくれた歴史認識
こんにちは。
てらぴーだよ。
汗が出続ける夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
小学生のころ、夏の最高気温と言えば、32,33度だったような気がします。
暑いけど、コロナもあって、なんだかうれしくない夏。
ひところ、ポストコロナと言われていましたが、「ポスト(その後)」なんてなかったようです。
コロナ時代じゃん、
インフルエンザみたいに、毎年流行するけどそれなりに対処はできるでも死者も覚悟しないとね、てな時代になっていくのでしょうか?
「コロナ世代」という言葉も出始めてます。
政治、経済活動、貿易、観光、教育、グローバルを推し進められないのなら、どんな「姿」の社会を目指せばいいのか。
感染者集団のことを「クラスター」と呼ぶらしいですが、グローバルを離れて、ナショナルな「クラスター(地域集団)」があちこちにできるのでしょうか?
個人としても、社会全体の大きな物語に自分の人生をゆだねるのではなく、自分の生き方を作り上げていく努力や工夫が、求められてくるのでしょう。
歴史認識というのは、ゲームのオセロのようなところがあって、見方を変えると、それまでの流れのとらえ方が、すっかり変わってしまうということがあります。
これまでは「白」できていてそれなりに評価も定まっていたのに、次を「黒」とすることでそれまでの流れも「黒」になってしまう、ということが。
しかも、オセロと違うのは、色が白黒2色だけではないということです。
「今」をどうとらえるか、その色合いによって、過去の評価も変わってきてしまう。
例えば、戦後の日本の歩みは、敗戦からの復興という経済大国化の歴史としてとらえられています。
そこにあるのは、極東の島国の成功物語です。
一方、バブル以後の歴史は、その反動でもあるかのように、衰退の歴史としてとらえられることが多いようです。
「失われた10年」がやがて「失われた20年」となり、いくら何でもという声をしり目に、今や「失われた30年」となっているのです。
繁栄と衰退。
けれども、コロナが露わにしたことを考え合わせると、その「繁栄」というのは、必ずしも「成功」ではなかったし、「失われた30年」も、「衰退」だけではなかった、むしろ、それまでの歴史のとらえ直しの機会であった、というふうにも見て取ることができるかもしれません。
経済的な豊かさの中に、実は隠れた「貧困」や社会問題が伏流していて、コロナにつながる「失われた30年」のおかげで、「幸福」のありかが見えるようになった、とも言えるのではないか。
「繁栄」が幻想なら、「衰退」もまた幻でしょう。
どのような社会が、私たちにとってちょうどいい大きさの社会であるのか、そこには何があるべきなのか、どのような在り方が幸せの種となるのか。
高度経済成長が「浮かれ騒ぎ」であったように、バブルに至る歴史とその破綻「失われた30年」もまた、マイナスの「浮かれ騒ぎ」であったのではないでしょうか?
何かしらの数値やデータで、その国の国力が測られ、また国民の幸福度も数字で表せるし比較もできる、という何ともお粗末な算術に、とりつかれていたように思います。
もちろん、コロナがそのすべてを明るみに出したわけではなく、ではどうしたらいいのか、ということについては何の役にも立ちはしません。
けれども、かなり根本的に考え直すべき時が来たのではないか、という視点を用意してくれたことは確かなようです。
部屋の模様替えを徹底的にしようとしたら、一時的にぐちゃぐちゃになるように、まずはこの部屋に何があるのかを暴き出し尽くさねばならないでしょう。
けれどもそれは「混乱」ではありません。
よりよい、快適な姿を目指してのお片付けなのですから。
「面白い時代が始まりそうだ」ぐらいに構えていればいいのでは?