時には大判のノートに、自分の欲望を広げ切ってみる
こんにちは。
てらぴーだよ。
残暑じゃないピークだろって夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
暑さで思考力がやられ、紙(手帳や野帳)を前にしても何も浮かんできません。
書けるときは、自動書記かよってくらい言葉が浮かぶのに。
もう空っぽです。
そういう時は、これからの仕事なり用事なりを、分かっていることとは言え、書き出していると、次第に頭のどこかのスイッチが入るようです。
なんなら、朝食や昼食に何を食べたのか、料理名だけでなく食材なんかも書き出すといいかも。
要はそうやって、書くことを始めると、書いている手の動きとかが刺激となって、少しづつ言葉が紡ぎだされてくるのです。
「こういうことを書こう」というのが、最初から頭のどこかにしまわれているようなときもありますし、蚕が糸を吐き出すように、次から次にそれまで考えてもいなかった内容が紡ぎだされることもあります。
へえ、こんなことを考えていたんだ。
我ながらびっくりすることもありますし、意外とつまらないと落胆することもあります。
自分の考えなのに、そのすべてを自分の中に持っている、というのでもなさそうです。
まるでアドリブのように、今生まれてくる言葉、そういう場合もあるのです。
常日頃から考えていたことを、この機会だからと書き出すこともありますが、筆に任せるままと言いますか、出てくるままに書きなぐることもあって、もちろん、後者の方が断然面白い。
いったいそれらの言葉というか内容は、どこからくるのでしょうか?
無意識のうちに自分で育てていた考えなのでしょうか。
それともアドリブよろしく行き当たりばったりに現れるのでしょうか。
普段は野帳を使っていますが、見開きでB6ぐらいの、つまりは大学ノート半ページぐらいの大きさななので、書きなぐり用として、A4の無地のノートも手元に置いてます。
やはり何かしらの考えを展開するには、できるだけ広いノートがいい。
そのすべてを埋め尽くさなくても、たとえ少ししか書けなくても、広い紙面を与えられているということが、脳にとっては大切なのでしょう。
野帳だって、見開きで書いて、足りなくなったらどんどん次のページへと書きついでもいいはずなのに、やはり初めに与えられた大きさ(広さ)が、思考の広がりをそれとなく制限するようです。
なので、持ち歩きはしませんが、机の上に、A4の方眼ノートを常備しています。
これは糸綴じなので、見開きで使えます。
見開きにするとA3の大きさなので、ここまで広いと大抵のことは書き広げられるでしょう。
紙面の大きさが、思考の広がりを左右するみたいです。
もしかしたら、ただの勘違いというか、自分で制限をつけているだけなのかもしれませんが、でもやはり、小さなノートを目の前にした時と、大きなノートを広げたときでは、心の高ぶり方も異なるように思えます。
携帯のこととか、いつでもすぐにというモバイルを考えたら、野帳とか手のひらサイズのノート、メモ帳に軍配ですけど、さあこれからテーマを広げて考えるぞといった時には、大きいノートあるいは用紙がふさわしいでしょう。
コンサルタントの大前研一さんも、A3の方眼紙でクライアントの案件を書き記していったそうですし、確か商品化もされていたのではなかったかしら。
日々の思い付きなどはメモで十分でしょうけど、考えを展開するとか、問題点を書き出す、あるいはやりたいことをすべて吐き出すとか、自分の好きなことを書き出すなど、広がる内容、テーマに関しては、少なくともA4の大きさが必要でしょう。
時には大きい紙に、自分を広げましょう。