読書は、誰かからのバトンタッチかもしれない
こんにちは。
てらぴーだよ。
安倍首相が辞意を表明した夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
おやめになるのはともかく、こういうのの「引継ぎ」ってどういうふうに行われるのでしょうか?
マラソンみたいに、「ここまでは走った、後はよろしく」みたいにバトンタッチできるものなのか。
でもそもそも、「その後のコース」が不透明だよね。
国内外で、問題は山積していても、それをどう解決するのか、決まった道筋があるわけでもない。
どこがゴールなのかもわからない問題だってあるに違いない。
新しい人は、その人のやり方で走り続けるのかな。
似たようなことは、私たちの身近にもあって、例えば読書なんかがそうだといえるかもしれません。
「書くこと」は同時に「伝えること」でもあるのですから、何かを書くというのは自動的に、つまり書いた時点で誰かへのメッセージになっていることでしょう。
書いた本人ももちろん含んで。
なので、読書というのは、誰かからの引継ぎを受け止めることだと言えるかもしれません。
「私はここまで考えた、後はこれを読んでくれた人が考え続けて欲しい」
それはある意味、希望のリレーのようなものかもしれません。
当たり前ですが、今ある状況がさらに悪くなりますように、と思っている人はいません。
ある状況を伝えたい、もしくはそのことを何とかしたい、そんな問題意識が必ずどこかにあると思います。
あるからこそ書いたのだとも言えましょう。
だとするならば、それを読んだ人は半ば「共犯者」のようなものではないですか。
「これを知ってしまったからには、あなたも仲間ですよ」そんな暗黙のメッセージが前提にされているのです。
その上で、でも、自分のできる範囲で考えていけばいい。
何か、恐怖(笑)に駆られてことを起こすことでもないでしょうから。
でも、書いた人の問題意識がどの辺にあったのか、それはどれくらいの広がりを持つのか、どれだけ重要か。
読んだ人に、どれだけ強く「あなたも当事者だ」と訴えかけてくるのか。
本を読むということは、だから、書いた人とシンクロすることでもあるわけです。
そのシンクロの度合いが強くて広いと、ベストセラーになるのかもしれません。
「ああ、あるある、そんなこと」で終わらずに、「え?じゃあどうすればいいんだろう?」と考えさせる力を持つのです。
注意しないといけないのは、本も「商品」なので、流行り廃りからは超越していないということでしょうか。
「ロジカルシンキング?もう古いよ、今はアート思考でしょ?」
「ユニクロより、今はワークマンでしょ」みたいに、記号の流れを追いかけていては、何も見えてはこないでしょう。
インプットをするというのは、社会に対して目を開くということでもあるはずです。
いわば、世界と関わりを持つ。
世界(社会)のどこに対して、どのような関心を持ち続けるのかは、個人個人で異なるでしょうけれども、世間から全く切り離された生活というものはないはずです。
あなたに渡されたバトンが必ずある。
そのバトンは、とりあえず「勘違い」でもいいと思います。
「どうせ、自分一人が選挙に行かなくても何も変わらない」と斜に構えるよりはいい。
そうやって、どこかを引き受けてみるというのも、読書の功徳かもしれません。
先人は、このほかでもない自分にこのことを託したのだと、思いっきり勘違いしてみましょう。
それもまた、読書の楽しみです。
中2病だなんて思わずに。