他の人の手帳から学べること沢山

 

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

曇りなので月光浴ができない夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

その昔、月の光だけで撮ったという風景写真を見たことがあります。

 

石川賢治『月光浴』

 

とても、幻想的でした。

 

もちろん、長時間露光をしているのでしょうけれども、こんな風景の中で過ごしている生き物もいるのだと思うとぞくぞくしてきます。

 

太陽光の元での生活がすべてではないのだなあと感じます。

 

常識と言いますか「それって当たり前でしょ?」が当たり前でなくなった時、目から鱗が落ちるのでしょう。

 

今日、何枚うろこが落ちましたか?

 

手帳や日記、メモの類も、何年も同じように書きついでいると、自分の中に「当たり前」が蓄積されていくみたいです。

 

手帳はこうでないといけない、とか。

 

ここはこのように書かなくてはいけない、とか。

 

日記のあるべき姿はこうである、なぜなら私がそのようにしているから。

 

こういうふうに書かれたものが「正しい」メモである、みたいに。

 

ある意味、硬直していくわけですね。

 

自分の中のルールだったものが外へも延長していく。

 

そして相手にも当てはめて、「はみ出し」を裁断する。

 

そこまでいくと、ただのわがままですが、自分なりの基準を持ち、それを他人にも当てはめて評価する、ということは日常よく見られることかもしれません。

 

気をつけないと、ただの偏屈なオヤジになったりします。

 

あるいは、最近だと「クレイマー」か。

 

手帳の世界(って、そんなのがあれば、ですけど)、定期的に、冊子や単行本などで、「他人の使い方・書き方」を見ることができます。

 

そういうのを見る楽しみは、なんといっても自由な使い方でしょう。

 

ああ、そんな風に使うんだ。

 

そういう書き方もありなんだ。

 

それをそんな風に使ってもいいんだ。

 

そこまでしますか?

 

といった、いわば「目からウロコ」のオンパレードです。

 

自分の使い方・書き方のなんと狭かったことか。

 

表紙を大胆に加工したりしてますから。

 

穴をあけて、ゴムバンドを通したり、小さい封筒を切って表紙の裏に貼って小物入れにしたり。

 

クラフトの世界。

 

字を書くスペースを極限まで探している方もいますよね。

 

考えてみたら、そこも「余白」なんだから、字を書いてもいいよね、的な書き方。

 

文字で埋め尽くそうという執念を感じます。

 

イラストにしても、「どこにでも書けるんだなあ」と感心します。

 

マンスリーの、日付を区切っている「罫線」を「壁の線」や「天井の線」に見立てて、「壁の向こうに隠れて、こちらをのぞき見している人」、「天井から鉄棒のようにぶら下がっている人」を巧みに書いていたりします。

 

色に関しても、単色から「4色ボールペン」、色鉛筆からカラーペン、マーカー、果ては水彩で「作品」を仕上げる人もいます。

 

本当に手帳・ノート、日記にメモの広がりは無限大です。

 

プロともなると、そんな日常の雑記帳から、次の作品が生まれてきてますよね。

 

ヨシタケシンスケさんが、だから、気になって仕方がない。

 

制作の裏側、と言ったらいいのでしょうか、どのように作品が出来上がっていくのか、という舞台裏を見るのが好きなんです。

 

なので、映画の「メイキング映像」も好き。

 

YouTubeで探してはせっせと見ています。

 

「下書き」や発想のメモが、どんな過程を経て「作品」となるのか。

 

書かれた結果、つまり作品だけを見ても十分楽しめるのでしょうけれども、その作品の裏側での試行錯誤の跡を見てみたい。

 

でも、単なるのぞき見趣味かも。

 

過程は追えなくても、他の人の書いた手帳やノートには、閉じ込められた思いや時間という魅力があるように思います。

 

そんなところもまた、アナログの良さではないでしょうか?