手書きと散歩に秘められた共通点とは?
こんにちは。
てらぴーだよ。
まとまった積雪のあった夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
朝、外を見たら、白。
積雪はそれほどでもないけれど、これが雪国の朝。
当分、長靴のお世話になります。
東京に住んでいたころは、長靴なんて必要なかったのにね。
いよいよ本格的な冬。
コロナ禍もあって、おうち時間が伸びそうです。
その分、読書がはかどったり、DVDを見たり、僕はゲームはしないけど、野帳やノートへの書き込みが増えていきそうです。
手書き、つまり手で文字を書くことには、歩く禅、歩行禅のような効果があるのではないかと思います。
歩行禅、字の通り歩く禅ですが、「歩く」といっても、すたすた歩くのではなくて、ゆっくり歩くのだと言います。
足の裏に神経を集中させて、今足裏がどうなっているのか、実況中継していくのです。
右足のかかとが、地面につきました。
かかとから前の方に地面に接してます。
右足が全面地面につきました。
かかとから、今度は離れていきます。
足指、特に足の親指を中心に地面をキック。
今度は左足のかかとが地面につき始めました。
といったふうに、意識を足の裏や足の動きに集中させるのです。
当然、ものすごくスローモーションになります。
でもそうやって、意識を集中する仕方を会得していく。
そうは言っても、煩悩のカタマリですから、足を運んでいる最中も、意識がすべて足裏にあるかと言えばそんなこともなくて、邪念というか関係のない思考やら感情が渦巻いてしまいます。
でもそれもまた、自分の考え方の癖や、感じ方の偏りを知るまたとないチャンス。
思い浮かぶことは思い浮かぶままに、否定せずそのまま浮かぶに任せましょう。
勝手に湧き上がってくる思いの数々を感じていると、ああ、自分はこんなことを考えていたのかとか、こういう感情がまだくすぶっているのかといったことも知れて、一人反省会になったり、これからどうしようかといったことに意識を向けると、一人作戦会議にもなったりします。
禅になってない。
それはともかく、時にはゆっくりと歩いて、自分と対話してみるのもいいかもしれません。
そして、同じようなことが、手書きをしているときにも起こります。
ワープロやスマホと違って、手書きではどうしても「字を書く時間」というものが必要です。
画数が多いとその分余計に時間がかかります。
ひらがなで書けば早いのにと思っても、ひらがなだと恥ずかしい漢字だってあるでしょう。
「今日は、初雪」と書くところを、「きょうは、はつゆき」なんて書いたら、誰かに見せるものではないにしても、なんだか恥ずかしい。
それに、漢字は、書かないでいると忘れるということも起こりますから、努めて書いたほうがいい。
特に中年を過ぎた方は、そろそろ「認知症」のこととか考えたほうがよろしいかと思います。
頭はいくつになっても鍛えられるそうですから、きちんと動くように日々のメンテナンスよろしく、漢字を書く癖をつけておいたほうがいい。
漢字を書く以外にも、歩行禅と同じように、字を書いている間にいろんな「妄想」が浮かんできます。
頭の考えって、複線みたいな走り方をしませんか?
声に出さずに頭の中だけで考えていても、メインの考えの後ろに、なんだか違う言葉が走っているように感じることはありませんか?
たぶん僕たちの脳は、同時にいろんなことを考えられるのだと思います。
ただ、その考えたことの出所が一つなので、同時に考えている複数のことを複数のまま声に出すとかはできない。
でも脳の処理としては、複線化になっていると信じてます。
なので、受験生なんかで、数学の問題を解いていて、すぐに答えが見つからなくて、科目を替えたりしても、頭の片隅でさっきの数学の問題を中の人が考えている。
で、しばらくして問題に戻ってみると解き方ができている、そんなことがあると思います。
なので、字を書いている間も、頭はフル回転でいろんなことを考えている。
頭を良く動くようにしたかったら、手書きと散歩です。
座禅を組むよりたやすくできるのでお勧めです。