コロナ禍を踏まえて、来年のことを考えてみる

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

雪は降らないものの冷え込んだ夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

思えば1年前は「のんき」でしたね。

 

「今みたいな平穏な生活が続いていくんだろうな、さて、これからどうしようか」と緊張感も何もなかった。

 

それが「コロナ禍」で、ここまで変わるなんて。

 

でも、考えてみたら、僕たちの生活の安全さ逆に言えば危険さというものは、コロナに限らず、先行き不透明なものなのではないでしょうか。

 

コロナがあってもなかったとしても、この先どうなるのかはわからない。

 

自分一人が気をつけていても、避けられない事故とか不運といったものはありましょう。

 

ただそれまでは、なんの根拠もなく、「自分には起こらないだろう」と構えていただけ、のような気がします。

 

実際にはいろんな場所でいろんな理由で(あるいは理由もなく)、事件事故の類は起こっているのですから。

 

命にかかわる病気にしたって、「そういう年齢だし、来るとは思ってました」と考えられる人はどれくらいいるのでしょうか?

 

ほとんどの人が「なぜ自分が?」「なぜこの時期に?」と感じると思います。

 

本当は「常に死と隣り合わせ」なのに、そのことを忘れて、毎日の生活を送っているのでしょう。

 

とは言え、例えば外出して無事に帰宅できたたびごとに、「ああよかった!事故にも合わず帰って来られた!」と涙を流して、自分の信仰する神様に感謝する人もいないでしょうけど。

 

普段の生活の中で、死を思うことはむつかしく、事故に備える心構えを保つのも、並大抵のことではありません。

 

けれどもやはり、コロナ禍の教え、「人生何があるのかわからない」「このままの日常が続くとのんきに構えてはならない」といったことは、毎日は無理としても、ことあるごとに思い出して、これからの方向に注ぐエネルギーのことを考えるべきなのではないでしょうか?

 

ありていに言うと、「これからどう生きますか?」

 

あるいは、「自分はどのような生き方を選択すれば、後悔が少なくて済むのか」を考えてみる。

 

こういった大きな問いかけは、毎日だとしんどいでしょうけれども、せめて年末から新年にかけてのまさに今のこの時期には、有効なことだと思うのです。

 

「2021年をどう生き延びようと思ってますか?」

 

もちろん、コロナ禍がなかったとしても、突発的な事故や思いもよらない病気などで、生き方が変えられたり、命が断たれたりということはありますけれども、そうした場合でも、より満足のいく生き方をどう選択するのか。

 

逆に言えば、「ああ、あれがやりたかった」「あのことが心残りだ」といった感情に陥るのをひるがえして、「これはこれで満足のいく生き方であった」と少しでも達観できるためには、何をどうすればいいのか。

 

そこに「正解」はありませんし、万人向けの処方箋などありません。

 

こればっかりは自分で考え選択し、覚悟を決めて実践していくしかない。

 

何がどうであっても「後悔」は浮かぶでしょう。

 

でも、「あれが心残りだ」と思う一方で「でもあれもできたし、これにも手を付けたし、その点は満足できる」と思える境遇に持っていく。

 

そしてそれは、実は今日1日のことでもあるのではないでしょうか。

 

今日1日とか、明日の1日で、「すべて」をオッケーにすることは、現実的ではありませんし、求めるべきものでもないでしょう。。

 

でもいくらかの「成果」が認められるのなら、そこに焦点を当てることで、「今日はこれができた、あれは出来なかったけど、やろうと思っているので、あきらめているわけではないので、良しとしよう」と満足できるのではないかと思うのです。

 

そして、そう思うことで、今日が無駄ではなかったと実感できる。

 

毎日がその繰り返しなのではないでしょうか?

 

手帳を開いて、スケジュールではなしに、どのような生き方を選択するのか、そのためには具体的に何をするのか、何をしないのか、書き込んでみましょう。

 

そうする中で、来年の目標といった事柄も、はっきりと姿を表すように思えるのです。