コロナ禍が続く今年、何が起きても大丈夫

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

晴れ間が広がった日の夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

大雪も一息ついて、今日は晴れ間が広がりました。

 

今住んでいる周りは、幹線道路ではないのか、除雪は進んでいません。

 

雪で段差があちこちにできて、車は通りにくそうです。

 

もちろん歩行者も歩きにくい。

 

「歩道」はもう埋まってて、車道を歩くしかないので、車が来るたびにすみに行くしかありません。

 

まるで人生のように、弱い立場のものは、大きいものが通り過ぎるのを待たなければならないのでしょうか。

 

去年はコロナ禍という、想像だにしなかった事態が起きて、生活のみならず人生設計さえもが、変更を余儀なくされた方も多いと思います。

 

下を見ればきりがないと言いますし、自分より大変な人もいる、生きててよかったなんてことを言いますけど、それでもつらいものはつらい、という時もあるでしょう。

 

どこでこの「どん底」に底を打つのか、それは結局は自分で決めるしかないのだと思います。

 

さらに悪くなることもありますが、ここを「折り返し地点」として、這い上がっていくしかない。

 

どん底だから「底」しかない、後は蹴上がるのみ。

 

でもさらなる試練が待っていたりする時もありましょう。

 

それはもう致し方ないこと。

 

無責任に、笑い飛ばすしかない。

 

必ずうまくいく解決策なんて、どこにもありませんし、誰も知らない。

 

それでも前を向ける力をどこで調達するか。

 

それは、試行錯誤しかないのだと思います。

 

できることをやってみる、やってみたことを記録して、引き続きすればいいことと、もうしないほうがいいことを分ける。

 

そしてまたやってみる。

 

その繰り返し。

 

残念ながら、ねじを回すようにかっちりと上へと上がることは保証できません。

 

少し上がったと思ったら、先ほどより下にずり落ちるかもしれない。

 

それでも上を見る、その力は何だろうと考えてみる。

 

ここで動けなくなったら、何が悔しいだろう。

 

ここであきらめたら、誰が喜ぶだろう。

 

ここで手を離したら、誰ががっかりするだろう。

 

自分の中にであれ、外部にであれ、何かしらの執着を持つ。

 

もう少しで見えるかもしれないものに期待する。

 

かまり立ちをした赤ん坊が、何度尻もちをついても、やがて歩き出すように、「大丈夫、うまくいくから」と声をかけてみる。

 

今年も、何がどうなるのか誰にも分からないけれど、何が起こっても、対処の仕方はあるだろう。

 

そして、それが正解だったか間違えていたかなんて、1年2年の短時間では答えが出ないことばかりだ。

 

選んだことはすべて正解と強弁して、歩を進めるしかない。

 

立ち止まっていたら、足元から腐ってくるだけだから。

 

今年の目標は、だから、何が起こってもこれだけは捨てないというものを書いてみましょうか。

 

よろしく、2021年。