たまにはいいよね、「今日は何もしない日」
こんにちは。
てらぴーだよ。
満月の夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
快晴とばかりに青空が広がって、洗濯日和。
ところが気温はさほど上がらず、冷たいばかり。
今日の午後には、「今日は何にもしない日」を宣言しました。
まあ、午前中に洗濯は済ませたし、買い物は明日でもいいし、外に出るには寒そうだし、というわけで、今日は「何にもしない日」(午後から限定)
日記には、大したことは書けそうにないけど、日記のために生きているわけでもないからね。
「インスタグラム」が流行って、投稿する写真を撮ったら、その写真用に買った、ほとんど口をつけてないスィーツを捨てている、なんてニュースもありましたが、手帳がさみしくなるのでなんかする、というのはどうなのか。
景品目当てにお菓子を買って、そのお菓子は食べないというのもよくありますけど、捨てないで後で食べるとか、友達にあげるとかすればよかったのにね。
おまけの力は侮れません。
中年以降大病をして、奇跡的に治癒、残りの人生はおまけみたいなもの、という物言いもよく目にします。
おまけは時に、本体を乗り越えて活躍するようです。
「何もしない日」も、それ以前の仕事をしていた日々からすれば、おまけのようなものかもしれません。
5日ほど仕事をして、おまけとして休む。
おまけに求められるのはドキドキ感。
だったら、あらかじめキチキチの予定はたてないで、成り行き任せの日があってもいいですよね。
そして、分刻みのようなスケジュールにするのではなくて、目の前を過ぎ行く時間というものが分かるように生きてみる。
つまりは、ゆっくりと過ごす。
例えば、お茶をゆっくりと飲んでみる。
いつもなら、ごくごくと多少は味わいつつも、のどを潤すのが目的でしょとばかりに流し込む。
そうではなくて、茶わんが唇のどこにどんな風に触れたのか、それからお茶がどんなふうに口中に入ってきて、どれくらいの量が口内のどこに触れているのか。
どれくらいの熱さか、どんな音を立てているのか、それが耳にどう響いているのか。
体中のセンサーの目盛りを、感受性最大にして、味わってみるのです。
そこには、単にお茶の味わいだけでなく、いつもはつながらない神経につながって、いつもとは違う感覚が起きてきたり、しまい込まれていた記憶なんかも思い出されるかもしれません。
別に、集中する必要もないのです。
ただ意識をふやけさせるというか、感覚が広がるに任せてみる。
雑念や、その場所にふさわしくない連想が働いても気にしないで。
「これは追いかけたくない連想だ」と思ったら、静かに手放しましょう。
いやな連想を意識の真ん中に持ってくることはないのですから。
「何もしない日」なので、「この後あれをしなくては」と考えることもありません。
ただただ「もういいや」と思えるまで、電源を切っておく感じでしょうか。
僕は貧乏性なので、そういう時も野帳とペンを傍らにおいて、連想したことを書きとめたりしてます。
次から次へと妄想が連鎖する時もあれば、本当に何も浮かばない時もあります。
どちらにしても、それはなにがしかの、特に心情の反映なのでしょう。
理由は分からずとも、何も出なかったら、「ああ、今日はそういう日なのか」と思いますし、連想が続いても「今日はそういう日なんだね」と思うだけ。
スケジュールをたくさんこなしても、いつの間にか1日が終わってても、もしかしたら優劣はつけられないのかもしれません。
だから書くことがなくても気にしないで、今日は今日でよかった日としときましょう。
ああ、でも、今夜は満月を見るんでした。
冬の満月だから、「スノームーン」というそうですよ。