アート思考とマインドフルネスの共通点とは

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

空模様に合わせて気が滅入ってる夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

朝から1日中小雨。そこそこ寒い。

 

気分も下がりがち。

 

負けてなるものかって思うけど、どうしても、気分て、お天気に連動しがちだよね。

 

ちまたでは、「アート思考」が流行っているそうで。

 

答えのない問題の考え方を学べるとか、アメリカの大企業では、美術館が主催する講座に社員を送り込んでいるとか、理系とプログラミング中心の次世代型の教育に、アートが加わったとか、ひところはやった「ロジカルシンキング」に代わって、注目を集めているようです。

 

「この絵は誰が描いた絵でしょうか」「ピカソ」といったような、知識偏重の、「正解」がどこかにあるような問いではなくて、「あなたはどう考えるのか」を鍛えてくれるのでしょう。

 

あるいは、そもそもの問いの立て方から捉え返すような知性を育む、そんな潮流なのでしょう。

 

そして、これまた「シリコンバレーで大流行り」といわれる「マインドフルネス」とも、どこかで繋がっているのではないかと思います。

 

アート思考とマインドフルネス、両者に共通しているのは、内面への掘り下げではないでしょうか。

 

例えば、ある表現、たいていは芸術作品ですが、それを見て、どう感じるか何を思うのかは、もちろん、人によって違いますが、なぜそのように考えるのか、感じるのかは自分の内面に降りていくしかありません。

 

単純に、この絵は好き、この絵は嫌いというレベルなら問題はありませんけど、ではなぜそうなのかと問われると、答えるのが、というよりも答えをまとめるのが、格段に難しくなりますよね。

 

「好きなものは好きだ」と思っていても、いろんな作品を数多く見て、そして感じていくうちに、自分なりのある「傾向」を捉えられるかもしれません。

 

自分の「好き」の内側にあった、感受性の形成過程にまでさかのぼるような、探索が動き始めるかもしれません。

 

それは言い換えれば、自分の内面への旅にもたとえられるでしょう。

 

マインドフルネスもまた、意識を今に集中して、自分の状態に、息使いに、聞こえてくるものに、肌が感じている感覚に、湧きあがってくる言葉やイメージに、深く深く、でも追いかけないで、集中していく瞬間の連なりなのですから。

 

普段は気にもとめない、あるいは無視してきた自分の感覚というものに、どっぷりと浸かってみる。

 

人間の感覚の大部分を担っている視覚を制限することで、他の感覚の感受性がふくれあがります。

 

例えば音。

 

部屋にいても、結構周りの音が聞こえていたことに改めて気がつくかもしれません。

 

自然の中でなら、なおさら、生き物の、生きているからこそ立てる様々な音に、集中を邪魔されるくらい集中できるかもしれない。

 

あるいは触覚。

 

肌が、どんなふうに大気と触れ合っているのか。

 

または、皮膚をたどることで、自分の体の「輪郭」を感じるかもしれません。

 

口中では、舌がどこにあるのかとか、唾液がどんなふうにわいてくるのか、ふだんであれば気にもとめない感覚でいっぱいになることでしょう。

 

そうした感覚の総体として、私たちは生きているのです。

 

しかも、もしかしたら、私たちは個人、他の人たちからは完全に切り離された存在として生きていると思ってますが、何かしらのつながりがあるのかもしれません。

 

ちょうど、植物や菌類が、地下の中の根っこや菌糸といったネットワークで、物理的につながっているように。

 

取り立てて、スピリチュアルな話を持ち出さなくても、私たちは、個人ではありますが、共鳴も起こすのです。

 

それはどこか、繋がっている証しなのではないでしょうか。

 

ユングは、「集合的無意識」の存在を提唱しました。

 

普段の生活では意識されないつながりが、コロナの時代に、再発見されようとしています。

 

芸術作品を作り出す力とか、それに感動する心の働きには、つながりを前提にした共鳴があるのではないでしょうか。

 

宮沢賢治はそれを、「交流電燈」と呼んでいます。

 

アート思考もマインドフルネスもつながりを求める、営みであるのです。