私たちの生活を作っているのはルーティンと、
こんにちは。
てらぴーだよ。
いつの間にか暗くなっていた夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
休日であることをいいことに、引きこもってしまった。
無為に1日を過ごしてしまいました。
諸般の事情で、テレビがないので、また、ゲームもしないので、それらをだらだらと続けるといったライフスタイルとは無縁なのですが、ただソファに腰かけて、だらりんとマインドフルネスが崩れたような姿勢で過ごしておりました。
本を手に取ったかと思えば、まどろみもし、野帳に心のままに思いつく言葉を書きつけても見たのですが、何ら生産的ではありません。
せめては、こんな日もあると自分を慰めるばかり。
思えば、生活には二つの側面があるようです。
繰り返されるルーティンな部分と、新しい展開の部分。
ルーティンには、毎日繰り返されるものと、数日とか数週間、、果ては数年といったように、時間をあけて繰り返される事柄です。
対して新しい展開は、それまで生活には無かったこと。
新たに加わったことがらですが、慣れていけば、ルーティンになったりするでしょう。
時には、新たな展開だと思ったものの、気がつけば、前にも同じようなことをしていたなあと、気がついて愕然とすることもあるでしょう。
僕の場合は、人間関係なんかがそれで、新しくお知り合いになるのですけれども、時に疎遠になることもあって、その際に、自分なりのパターンみたいなものが、露呈することもあります。
似たような対人関係を築き、そして離れてしまう。
ルーティンなこととも併せて考えると、僕たちは年を取るにしたがって、同じことの繰り返しで生活を組み立てているのかもしれません。
例えばあなたは、先週、新しい食べ物をどれだけ口にしましたか?
もちろん毎回新しい食べ物というわけにはいかないでしょうけど、食べ物は保守的なのか、いつも同じようなメニューになってませんか?(俺だけ?)
衣類なんかでも、新しいものを購入したとしても、スタイルとしては、同じだったりしませんか?
例えば、綿のシャツにジーンズみたいな。
新しい服を買おうとするときに、これまで着てこなかった素材であるとかデザインであるとか、雰囲気、スタイル、そんなことを考える人はどれくらいいるのでしょう?
そうは言っても、ごく普通の令和の日本人のスタイルで、いきなりメキシカンというのも考えにくいところではあります。(何が「ごく普通」で、何が「メキシカン」なのかよくわかりませんが)
無為に過ごしたと書きましたけど、それでも午前中に、午後の雨を嫌って、洗濯をしました。
こういうのは、ルーティンの中のルーティンですよね。
キングオブルーティンといってもいい。
もう作業なんて流れ作業ですから。何をしてどうすればおしまいか、輪郭がはっきりしている。
流れがつかめるので、途中別のことをしていても構わない。
その一方で、新しく生活に入り込んできたことがらは、意識を向けていないとうまくできないかもしれません。
まだ慣れていないから。
でもそれが、繰り返し行うことであるならば、そのうち自分の中で、自動運転となることでしょう。
スマホの操作なんて、そのたぐいのことかもしれません。
何しろ、もう10年以上たったとはいえ、それまでの生活には無かったことなのですから。
令和の街並みとか、特に大都市での電車の中の様子をビデオに収めて、昭和の人に見せると、「なんでみんなうつむいて指を動かしていたりするの?」なんて、不思議がられるかもしれません。
このように、私たちの生活は、繰り返されることと、新しいことで成り立っているのです。
そのバランスが、個性というものなのでしょう。
今週、新しいことはいくつありましたか?
来週、新しい挑戦はいくつできそうですか