日記を書くことで、脳の血流を増やせるかも

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

新緑の季節がやってくると思う夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

パソコンの調子が、ここ数日連続で悪い。

 

いったい中で、何が行われているのか。

 

何が行われていないのか、皆目見当がつかない、というところが、靴の上からかゆいところを搔く事態となっている。

 

けれども少し考えてみますならば、僕たちの日常も、年を取るにつれて、同じように不調になっていくのではありますまいか。

 

普通に、何の過誤もなく生活できていると思っているけれど、実は不調のコンピュータのように、何かが行われず、別の何かが実行されているのではないでしょうか?

 

そうしたことが、積もり重なって、例えば「認知症」として確認される。

 

でも、実のところずいぶん前から、「異変」は起こっていた、ただ気がつかなかっただけ、のようにも思えます。

 

二十歳(はたち)前後で脳が成長しきったら、後は、転げていくだけなのかもしれません。

 

それが、生き物としてのニンゲンのたどる成長の過程ならば、素直に受け入れつつも、やはりいくらかの抵抗は試みなければなりません。

 

日記を手書きすることは、これからの老人社会においても、大いに推奨されるのではないかと思います。

 

日記を書こうと思ったら、その日何をしたのかを思い出さないといけません。

 

でたらめに書くわけにはいかない。

 

「晴れときどきブタ」じゃないんだから。

 

朝何時に起きて、それから何をしたのか。

 

何時ごろに何を食べたのか。

 

そうした行動記録に加えて、その時々で、何を考え何を思ったのか。

 

そうしたことをある程度詳細に思い出すことで、脳に流れる血液の量も増えてくれることを祈りましょう。

 

そうした、1日の行動記録を書くのが楽しくなると、今度はこんなことも書きたいと未来の予定にまで、積極的になれるかもしれません。

 

明日はこれをしようとか、あそこに行きたいとか、これこれが食べたいとか、生への執着が多方面に広がることでしょう。

 

自分の毎日を思い出していく中で、自分なりの行動や気持ちの傾向にも、気がつくことでしょう。

 

あそこでこうしたのはまずかった、あの場面ではこうすればよかった、こういう気持ちになるのはいいことだ、こうした気分は減らしたほうがいい、などという、生活上の改善点も見つかるかもしれません。

 

頭の上に、「!」が、いくつもつくことでしょう。

 

そうした内容を、その都度言葉に置き換えて、そのすべてを書くわけにはいかず、したがって要約もし、順序を整えたりもするなかで、さらに血流が増えていくと思われます。

 

そして、手書き。

 

脳から、いくつもの神経や筋肉に指令を飛ばし、制御して、文字を書き連ねていく。

 

書いた文字はその場で目でとらえられ、次の文章の書き方にフィードバックされていく。

 

日記帳や手帳、ノートなどに罫線に沿って字をまっすぐに書いたりするのって、実はとてもテクニカルなことではないかと思います。

 

ロボットにやらせようと思ったら、結構大変なのかも。

 

書くときは、集中はしているとは思いますが、関連した、あるいは何の関連もない事柄も、頭に浮かんだりしますよね。

 

何かしらの刺激が、脳のどこかしらの神経細胞を発火させるのだと思います。

 

そうした、直接はからまない発火現象も、脳を動かすことに、ひいては血流の増加に繋がるのだと信じたいです。

 

機械は、基本その機能だけですが、人間の脳などは、関係ない他の機能にまで、刺激が及ぶようです。

 

今考えていることと関係のないことも考えてしまい、でもそれがなぜ出てきたのか説明できない、それが、人間らしい脳の在り方でしょう。

 

そしてAIには、そんなおまけのような機能は期待できない。

 

よそ見をしていた「シリ」とか、他のことを考えてた「アレクサ」なんて、作れないでしょうから。

 

日記を書くことで、人間らしさを満喫しましょう。