時には、「余命1年」だと思って、未来を考えてみる

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

何をするでもなく迎えた夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

何をするでもなく、暮れてしまった夜。

 

こんな日もあると、自分を慰めつつ、でも、1日損をした気分。

 

あれをすればよかった、あそこに行けばよかった、でもしなかったのだから、すべては自分のせい。

 

無為に過ごすと、手帳や日記に書くことがなくなるだけでなく、打ちひしがれた感情に包まれてしまう。

 

「何かを為さねばならない」という強迫観念。

 

でも、毎日、高い意識で前進するのもどうか。

 

それに、そんなに前進もできまいて。

 

せめては、今日できたことを数えて、1日の終わりとしましょうか?

 

朝目が覚めた、から始まって、布団をはねのけた、立ち上がり着替えた、昨日のご飯だけど、朝食をとった、などなど、細かく見ていくと、「何にもしなかった日」にしては、いろいろ動いてます。

 

今日がまるまるお休みなら、着替えてなくても大丈夫だし、食事も不定期で、とりあえず腹が満たされれば良しとする。

 

そういう「ゆるい」1日もまた、何かしらの「栄養」になることだろう。

 

マイナスのアクティブ。

 

予定などをバリバリこなすのもいいけれど、ふと立ち止まったように、あるいは充電しているがごとく、なるべく動かないで自分の内面に降りていくのもあり。

 

よくある質問で、「余命1年と言われたらどうしますか?」というのがあるけれども、次の予定がなく、だらだらしがちな日には、そんなことを考えるのもいいかもね。

 

例によって、大判のノートを広げて、向こう1年でできそうなこと、やってみたいことなどを、具体的も抽象的もごちゃ混ぜにして書き出してみる。

 

きちんと書こうとか、箇条書きにしようとか、マインドマップみたいにしようとか、形式もどうでもいい。

 

とにかく頭に浮かぶまま、手が動くままに書いてみる。

 

案外書けなくて、ほどなく手も頭も休止状態になるかもしれません。

 

でも気にしないで、途中でやめてもオッケー。

 

ノートを開いたままにしておいて、また気が向けば書けばいい。

 

これからどうしたいのか、なかなか浮かばなかったら、これまではどうだったかを思い出してもいいでしょう。

 

幼稚園前ぐらいの時、何に夢中だったのか。

 

小学生の各学年で、どんなことにはまっていたのか。

 

中学では何に心惹かれていたのか。

 

高校生の時はどうか。

 

といったふうに、今まで何に夢中になる人生だったかを思い返していくと、自分の傾向が分かるでしょう。

 

その中には、以前は好きだったけどやめてしまっていて、でもまた始めたい、ということもあるのではないかと思います。

 

「余命1年」を、どうデザインしますか?

 

あれもこれもと詰め込むのは難しく、セレクトしないといけない。

 

あんまり長丁場な、3年かけて英会話をぺらぺらに、というのも今回はなし。

 

時には、来週の予定を確認するというルーティンから離れて、向こう1年を考えてみることも、「今」を充実させるスケジューリングになるかもしれません。

 

1年で、どれだけの成果を得られるのか、どれだけ周りの景色を変えられるか。

 

1年後、どこにいるか。

 

そのための今月であり、今週になっているか。

 

コロナの時代だから、考えづらいところはあるでしょうけど、それだからなおさら、自分たちの生活に何が必要で、何はなくてもいいのかを根本からとらえ直してみるのもいいかもしれません。

 

コロナ禍が突きつけているものは、結構深いところまで見えるようにしてくれていると思うので。