今日起きたことはすべて「必要なこと」

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

とうとううちの近所でもカエルが鳴き出した夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

田植え真っ盛り!

 

さて、1日の内には、いろんなことが起こっているはずです。

 

良かったこととか嬉しいこと、これといった感情も動かないこと、それから、良くないこと、不幸だと思えることまでいろいろ。

 

もしそれらに何かしらの色付けができたのなら、僕たちの1日はとてもカラフルになるに違いありません。

 

けれどもここで、起きたことを「良いこと」「悪いこと」と判断するのではなくて、どんな些細なことでも「今日という日に必要であったこと」と捉えてみたらどうでしょうか?

 

例えばやる気が出なくて、仕事やお勉強が進まなかった、という時、「今日は調子が悪い」とか「今日はだめだ」などという「評価」をしがちですけど、その「やる気が出なかった」ことが、今日は必要だったのだと受け取ってみたら、何が見えてくるでしょうか?

 

自分の身に起きることは何でも、起きる必然性があったのではないか。

 

だとするならば、最悪とか不幸だと思えることにも、何かしらの存在意義があるはずだ、と考えてみるのです。

 

起きたことをマイナスと捉え、良くないこと、起きて欲しくないことと考えていては、見えるものを曇らしているだけなのではないか。

 

プラスには捉えられないかもしれないけど、起きたということは、やはりそこに起きるだけの意味というか価値もまたあるのではないか。

 

先ほどの例で言うならば、「やる気が起きなかった」という裏には、やる気を出したくない何かがあったかもしれず、あるいは気分的に疲れていたとか、休息が必要だったとか、他にしたいことがあったなら、別のことならやる気も出たかもなど、いろんな存在意義が考えられるでしょう。

 

少なくとも、やる気が起きない自分を責めることはしないほうがいい。

 

けれども往々にして、起きたことに対して、プラスかマイナスかという評価や価値づけを、無意識のうちに、それも電光石火の早業で、下しているのではないでしょうか?

 

あらゆる体の不調の原因は、ストレスだと医学が教えてくれてます。

 

だとするならば、今日何かしらの体調の不良があるのなら、どこかでストレスを感じているのでしょう。

 

そのストレスを大きくしないためにも、「今日頭痛がしている、こんなことではだめだ」などと言わないで、「少し休んだほうがいいのかもしれない」「もしかしたらやり方に問題があるのかも」「自分に向いていないことをしていないか」など、不調の原因を洗い出してみましょう。

 

あるいは、妙に辛いものが食べたくなったとか、甘いものがやめられないとか、また服を買おうとしているなど、行動や感情の背後に、それではない目的があると思います。

 

本当は「辛いものが食べたい」のではなくて、別の、おそらく隠された真実の目的がある、それは人によって違うでしょうし、状況によっても変わってくるでしょう。

 

本当に、単に辛いものが食べたかったという場合だってあると思います。

 

要は、どれだけ自分と対話しているか。

 

自分って、時には自分を欺きますから、本当は何を求めているのか、きちんと向き合ったほうがいいでしょう。

 

体や心が、悲鳴を上げていることだってあるのですから。