知識はいつ、教養となるか

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

カエルが元気な夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

「物知り」と「頭がいい」というのは、重なり合う部分はあるものの、別物のような気がします。

 

クイズ王は、日本の知性たりうるのか。

 

もちろん、知識はあって困ることはない。

 

博覧強記で、対象を縦横無尽に語りつくす、と言えば、何やら知性を感じます。

 

物知りであることは、いつ、教養へと昇華するのでしょうか?

 

確か、星新一さんのショートショートだったと思うのですけど、人類が「神」を作るプロジェクトを始めた、というお話。

 

どうやって神を作るのか、というとコンピュータに人類のありとあらゆる知識を入力するというのです。

 

結末はさておき、これまでに人類が蓄積してきた知識を余すところなくひとつのコンピュータに記録させると、そのうちに、そのコンピュータは、知性を持つのではないか。

 

そうした発想は、意外と多くの人々が持っているのではないでしょうか?

 

何でも知っている、何を聞いても答えてくれる、それはもう、天才を通り越して「神」なのではないか。

 

もちろんここで、直ちに、「じゃ、グーグルは神なのか」という突っ込みが、現代では入るに違いありません。

 

知識を集積しても、知性は誕生しない。

 

巨大なテクノロジーは、そのことを図らずも証明したかのようです。

 

けれどもそれは、プログラムの問題で、アルゴリズムを変えると、グーグルも自分独自の「考え」を持つようになるのでしょうか?

 

そうなれば、例えば検索で、あることを調べようとしたら、グーグルから、「お前にはそれは分からない、だからこの辺から読み進めてみなさい」などと言う、余計なお世話的なアドバイスが出てきたりするのでしょうか?

 

そうするためのプログラムなら、作れるでしょうけれども、いつの間にかグーグルにそのような知恵がついていた、といった事態になったりするのでしょうか?

 

その上さらに、シンギュラリティが起こったりして、「こんなことも分かんねえのかお前は」などとマシーンから、面罵されたりする日が来るというのでしょうか?

 

知性下品じゃん。

 

それとも、育て方次第で、腰の低い、けれども知的な個性が生まれるのでしょうか?

 

その前に、人類の中だけで、知性とは何か、教養があるとはどういうことか、知識はどのようにすれば、創造力へとつながるのか、といった事柄について、もっとはっきりとさせておくべきでしょう。

 

お勉強ブーム、独学の流行で、知識欲は高まっていると思いますから、その熱意をうまく、教養や知性と呼ばれるものに育てていく道筋が、もっと求められると思います。

 

でも、入り口は、「もっと知りたい!」なんでしょうけど。