5月をどのように振り返ればいいのか

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

5月の終わりの夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

それから、今月を。

 

どんな5月であったのか、人によって、その特徴の探り方というか、目の付け所はずいぶんと異なるでしょう。

 

この1か月、というと、なんだか1年を通して、同じようなひと月になりますが、実際は季節が違ったり、仕事の中身が違ったり、生活のあれこれも変わっているのが普通でしょう。

 

「判で押したように」という言葉がありますが、これといった特徴的な違いのない毎月を過ごしている人もいないでしょう。

 

特にコロナ禍2年目ですから、「いつもの5月」ではなかったはずです。

 

では、自分の特別な、2021年の5月をどう振り返ればいいのか、何を指標とすべきなのか、それはその人がどのような生活を営みたいのか、その質にかかっているのだと言えるでしょう。

 

まあ中には「無事これ名馬」とばかりに、何もないことが、なんの波風も立たないことが素晴らしいのだ、と考えている、典型的な公務員なお方もいらっしゃることでしょう。

 

けれども人生というのは、波風が立ってなんぼ、という面も確かにあると思います。

 

何かしらの「事件」が起こり、その当事者となって、渦中にいる時は、「なんで自分がこんな目に」と思うものですけど、後から振り返れば、あれはあれで有意義だった、と思える人生が望ましいのではないかと思います。

 

ただ、その渦中にいるばかりで、そこから抜け出せないとか、そこで人生終わってしまった、という時には、めでたさも中くらいなりなのではないでしょうか。

 

「最後に笑うものが最もよく笑う」とも言うように、笑える段階に行くことが、不可欠なのではないかと思うのです。

 

ですから5月の評価にしても、それは、今の時点での評価に過ぎません。

 

5月に種をまいたことが、大きく芽を出したなら、その種まきは良かったのでしょう。

 

けれどもその後で、その芽が原因となり、何かしらのしくじりをもたらすかもしれません。

 

そうなると、5月の種まきは、災いの種をまいたとも言えるわけで、評価はまた違ってきます。

 

まさに、人間万事塞翁が馬であり、禍福は糾える縄の如しという通りです。

 

ですからここで、軽はずみに、5月のあれが良くなかったと、性急に判断を下すのではなく、計測できる事実から、数え上げていきましょう。

 

例えば、5月に何冊の本を読んだのか、といったようなことです。

 

何にいくらのお金を費やしたのか、といったことでもいいし、手帳を開いて、時間の使い方を集計してもいいでしょう。

 

その時の項目の立て方も、人それぞれでしょう。

 

例えばお金の使い方で、食費が最も重要だという人もいれば、車にかけている車両費は、特別に項目として挙げなければならない、という人もいるでしょう。

 

何にお金を、何に時間を費やしているのか、その項目や方向性が、生活の質を決めるのだと思います。

 

ですから、「もっと、こうしたことにお金を、あるいは時間を使いたい」と思っているうちは、何も前進しません。

 

前進どころか、後退が始まっているかもしれません。

 

やりたいことがすぐにできなくても、その周辺に身を置くことで、やりたいことに近づけます。

 

気持ちがいくら強くても、何もしなかったら、年老いていくだけです。

 

そしてそれは、好奇心や意欲の減退にもつながりますよ。

 

20代での「ギター弾いてみたい」と、70代でのそれは、同じエネルギーではありませんから。

 

何が何でも、という意欲もまた、老化にさらされているのです。

 

5月を振り返りながら、「継続審議」にしている案件は、どれくらいあるのか、いつまでも「時間ができたらする」項目に入れていてはいけません。

 

そのうち、時間が無くなりますから。いや、ほんとに。