毎日の生活は、データでできているわけではない

こんにちは。

 

てらぴーだよ。

 

暖かい夜に、手帳の時間です。

 

今日1日を丁寧に振り返りましょう。

 

もやしよりも細かった稲が、すくすくと育っています。

 

水田は偉い。

 

単にお米を生産するだけでなく、国土保全であるとか、生態系維持、気温の調節まで担っています。

 

「日本でコメ作りするのは、非生産的なので、外国に安く作らせて輸入すればいい」とのたまった、経営コンサルタントがいらっしゃいました。

 

経済効率といった、データからは、そのように判断できるのかもしれませんが、データに現れない価値も、考量すべきでしょう。

 

確かに、AIの登場で、大量のデータを裁けるようにはなったものの、そのデータの取り方は、人間が決めているのでしょうし、データにならない事柄をどう扱うのか、AIの側に、確固たる指針があるとも思えません。

 

コンピュータって、どこまでいっても「電子計算機」。

 

中の人がしていることって、「計算」ばかりではないのですか?

 

時折りさぼったり、数値を書き間違えたり、計算結果を忖度したりといった、人間らしいぶれ方がプログラムされているとは思えません。

 

もとより、「考える能力」や「感動する感性」といったものは、備わってはいないでしょう。

 

コンピュータが、ふと計算の「手」を止めて、昨日見た夕焼けのことを思い出し、仕事が進まない、ということがあるもんですか。と、アナログな僕などは、思ってしまいます。

 

世界はデータからだけで、できているのでは、ない。

 

日常の景色を、朝何時に起きて、それから歯を磨いたとか顔を洗ったとか、朝ご飯は何を食べてとか、そんな「事実」にばかり還元しているから、世界はデータでできているように錯覚してしまうのでしょう。

 

実際は、その間ひっきりなしに感情は動き、思考も千々に伸び縮みしているはずです。

 

ただ、そうしたものは、一方でものすごい速さで流れていき、ほとんど後に残りません。

 

歯磨きをしている間にも、「はあ、まだ眠いなあ」「やっぱり寝る前のスマホ、やめたほうがいいのか」「(鏡を見ながら)お、そろそろ散髪に行かないと、でもまだ大丈夫か」「歯磨き粉変えてみようかな、でも、歯磨き『粉』じゃないけど」「コーヒー淹れようか、それぐらいの時間はあるはず」「今度の土日はどうする」「あれ、食パン切れてたっけ」てなことを、おそらくこれ以上に流しているはずなのです。

 

でも、あまりに「日常」だから、何も覚えてはいない。

 

覚えていないから、日記には、「朝7時に起きた」とか書くぐらい。

 

「今日も歯磨きしました」とは、たぶん、書かない、小学生じゃないんだから。

 

世の中に出回っている「データ」とかにも、こうした、背後の詳細な、個々具体的な「思考」や「感情」があるのではないかと思います。

 

アンケートの選択肢にだって、その選択肢の文言を越えた、さらなる思いや詳細な事情があるに違いないのだけれど、アンケートでは、そこまで用意できない。

 

だから、「この選択肢が過不足なく自分の気持ちにぴったり」なんてことはないのだと思います。

 

でも何かしらのデータを取らないといけない。

 

AIの時代になって、詳細なデータが取れるようになるのでしょうか。

 

日記に、事実だけを書くよりも、そうした行動やこなしたスケジュールの背後にある、個人の、あなただけの考え方や気持ちの移り変わりを記していったほうが、後で読み返して、意義深いものになると思います。

 

1日を何に費やしていたのか、同じ「スマホを操作していた」とか「読書をしていた」と言っても、その内容はまさに千差万別。

 

データに現れない「個人差」を残していきましょう。