テクノロジーには「頭」がない
こんにちは。
てらぴーだよ。
ベランダでの夕涼みが楽しい夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
まだ蚊も出てきてないので、無防備にベランダで夕涼み。
アウトドアな椅子を出して、飲み物はペットボトル、スマホで音楽も流せる。
テクノロジーとしては、進化しているけど、基本は変わっていないのが、紙に手書き、という文化。
大昔は、地面に棒や指で書いていたのでしょう。
その基本形はさほど変わらず、地面が紙に、棒や指の代わりを筆記具が担当して、おそらくは数千年の間、そのスタイルで来てるはず。
紙が、ディスプレイになっても、文字を打ち込むようになっても、「ペンで描く」文化は廃れていない。
もしこの、紙に手書きの文化が、テクノロジーの発展で変わるとしたら、テスラが進めているとかいう、脳に電極を差し込んで、思った瞬間文字や絵なんかが表示される技術でしょう。
もしそんな技術が、広くいきわたり、学校なんかでも実装されたら、「学習」の在り方そのものが、変わってくるでしょう。
先生が説明して黒板、もしくはホワイトボードに板書、生徒はそれをノートに写す、そんな講義形式の授業は、どんどん過去のものとなりつつありますが、新しい単元内容を理解するために、問題を解く際には、ノートや鉛筆などが、まだまだ有効でしょう。
そうした道具も、タブレットなどに取って代わられる今日この頃、教科書もデジタル化が進むというし、そのうちに、紙の教科書やテストなんかは、博物館入りするのでしょうか?
先生の机のモニターには、生徒の学習態度や理解度、集中度なんかがリアルタイムで表示され、生徒一人ひとりは、各自の理解度に沿った問題に取り組む。
やがて、学年の壁も取り払われて、教室と廊下の区別も無くなり、無学年な学習が、そこかしこで行われるのかもしれません。
読書だって、タブレットでするのなら、図書館に行かなくても、学校の図書館を持ち歩くこともできるでしょう。
データが入っていなくても、ネット経由で、何十万冊、何百万冊から、瞬時に取り出して読書にいそしむ姿が、普通の光景に、実はもうなっているのかも?
どこまでいくんだ、デジタル。
そのうち、知識なんて、カセットテープを取り換えるように、じゃなくて、CDを変える、じゃなくて、USBを差し替える、でも違う、モニターをタッチするだけで、身につけられるようになるかもしれません。
そうなった時、知性は誰が育ててくれるのでしょう。
そうなった時でも、そうなった時だからこそ、武道やお稽古ごとにおける、「師匠と弟子」の関係性が、見直されてくるのかもしれません。
「一人前の寿司職人になるのに10年の修行は無意味」という意見がネットをにぎわしたことがありましたけど、その無意味さの中の意義の在り方が、問い直されてくるかもしれません。
落語家の弟子なんかでおなじみですが、師匠の家に住み込みで雑用をする、そのスタイルや修行の在り方が、もっと深められ議論され、暗黙知として見直されてくるかもしれない。
紙に手書きという文化もまた、「遅れたもの」「テクノロジーの前に消え去るもの」と捉えないで、手で鉛筆やペンを持って字を書くことのいろんな効能を、今こそ捉え直し、再評価し、次代に伝えていかねば、と思うのです。
「紙に手書き」の意味合いは、これからも新しく、問われ続けていくことでしょう。