最近の、あの首から下げている扇風機について考えた
こんにちは。
てらぴーだよ。
閉じこもるしかない雨の日の夜に、手帳の時間です。
今日1日を丁寧に振り返りましょう。
これが世相なのか、風俗なのか。
大きいヘッドフォンを肩に休ませている光景は、もうおなじみのものだが、そのヘッドフォン、最近のは少し形が違うのかと思っていたら、ヘッドフォンではないらしい。
ハンディな肩掛けの扇風機、もといファンであるらしい。
去年もこんなのありましたっけ?
ここまで広がるのは今年が初めてではないかしら。
扇風機をそのままちっちゃくした、卓上型のは、数年前から見てはいたものの、肩掛け首掛けハンディなものは、見てなかったと思います。
今年の流行でしょうか。
令和3年の風俗でしょうか。
後の時代から、「ハンディファンの元年」などと記念されるのでしょうか。
見ただけで、実際に装着はしていないのでわかりませんが、首に掛けると、なかなかに重いのではありませんか。
肌にあたる部分に装着する、タオル地かなんかの「カバー」まで、そのうち出るんじゃないのか。
何しろ、受話器カバーやドアノブカバーの国なのだから。
首にタオルをひっかけて、自転車に乗ったりしてた女子高生が話題になってましたけど、それはもう廃れたのでしょうか。
卓上型の扇風機も、紐をつけて首からぶら下げられるようになって、今じゃあ、ダイソーで買えます。
たぶん電池は別売りだと思うけど、それでも220円で、個別の涼が取れるなんて、暑さコントロールも、パーソナルな時代に入ったのでしょうか。
それにしても、ダイソーの店頭をにぎわしている、大量のパーソナルな扇風機のカタマリを見ていると、これぞ「資本主義的生産」という気がしてきます。
なぜにこの商品が、110円で売られるのかと言えば、それはもう「大量生産」に他なりません。
しかもおそらくは中国やあるいはベトナムで、田舎から出てきた女の子が、工場の寮で共同生活をしながら、1日数百円の賃金で働いているからこそ可能になっている価格だと言えましょう。
そして、コンテナで船積みで、日本に運ばれて、小売店の店頭に並ぶのです。
きわめてステレオタイプな捉え方をしましたが、これが、ウォーラステインが提唱した、世界システム論なのでしょう。
しかしここには、「責任者」というものがいません。
大量生産、大量消費、そのおかげで、「欲しかったあの品」が「安く買える」のですから。
けれどもこれには続きがあって、「大量生産、大量消費」の次は、「大量廃棄」へと進むのです。
特にダイソーで売られているお安い扇風機が、製品としても、愛用品としても、長続きするとは思えない。
製品寿命としても、そう何年も使うものでもないでしょうし、消費者は、無責任に「飽きます」。
大量に売られた後は、大量にしかも個々にごみとなるのです。
リサイクルも難しいでしょう。
そして、責任者がいない。
商品を企画、設計した人は、「こんな商品があればいいかなと思って」企画したのでしょうし、工場で生産した人は、「作れと言われたから作ったまで」、物流関係の人だって「運んだだけ」、小売りの人も「荷物が届いたから売ったまで」
そして、消費者は、壊れたから、飽きたから、捨てただけ。
プラスチックやいろんな金属の複合体だから、リサイクルするよりは、埋め立てたほうが「安上がり」なのかもしれません。
こうして、責任者不在で、資本主義的生産の王道を行く「大量生産、大量消費」、そして、なかなかイメージされませんが、「大量廃棄」のサイクルが回されているのです。
最終形態を考えたら、資源やエネルギーを消費しながら、国土のあちこちを埋め立てているに過ぎない。
けれども、「果たしてそれは必要か」と問うこともできないくらい、現代社会というものは、逃げ足が速い。
もう、次のトレンドが、始まっている。
こうした流れから身を引いて考え、生活するすべを身につけないといけないのでしょう。
それが、話題の、『人新世の「資本論」』の斎藤幸平さんの主張でもあるような気がします。
やはり、確実に変えていけるのは、身の回り3メートルから。